システム内存在の不可能性の認識、及び全体性の恣意的生成の可能性について
Die Geschichte vom Daumen-lutscher.
-ゆびしゃぶりこぞうのおはなし-

「コンラート!」ママは言いました。
「ちょっと出かけてくるけど、お留守番してなさいね。帰ってくるまでちゃんといい子にしてるのよ。いいわね、コンラートよく聞きなさい。親指をしゃぶってはいけませんよ。言いつけ守らないと仕立て屋さんがすっ飛んできてはさみで指をちょん切っちゃうんだから。」
ママが出かけると、おっと、早速指しゃぶり。

バン!その時ドアが開いたかと思うと、すごい勢いで仕立て屋が、指しゃぶり小僧のところにやって来た。痛い!鋭い大きなはさみでちょっきんちょっきん!親指すぱっと切っちゃった。うわーん。コンラートは泣き叫ぶ。

ママが家に戻ってみると、コンラートはしょんぼりと、両手の親指失って、一人ぽつんと立っていた。

これはハインリッヒ・ホフマン(Heinrich Hoffmann)の絵本「もじゃもじゃペーター」(Der Struwwelpeter)の中にある一編、“指しゃぶり小僧のお話”だ。全部で十編からなるこの絵本は、精神科医であるホフマンが、3歳になる息子のクリスマスプレゼントとして自分で書いたものだという。翌年、友人の勧めで出版するとこれがたちまち評判になり、まもなくヨーロッパじゅうの言語に訳されるまでになる。日本ではあまり知られていないが、向こうでは結構絵本として古典なのだろう。
この本を知ったのは本当に偶然だった。天気の良いある日、たまたま立ち寄った上野公園を意味も無く歩いていると、とある看板が目に止まる。国立国会図書館でやっているという“もじゃもじゃペーターとドイツの子供の本”という展示会だった。気になったので、何気に立ち寄ってみたところ、これが個人的に大ヒットだ。言いつけを守らないでひどい目にあう子供達の話を集めたこの絵本は、他にもマッチで遊んでいたら火が全身に燃え移って灰になる女の子、“とても悲しい火遊びのお話”だとか、スープを飲むのを嫌がってやせ細って死ぬ男の子、“スープ・カスパーのお話”なんていうのもある。一見すると残酷で不条理なお話も、ホフマンの味のある絵とあいまって、なんともいえない魅力を醸し出している。

そもそもこの本のタイトルである「もじゃもじゃペーター」とは、一年もの間爪も切らない、髪も伸ばし放題で放置する不潔な子供ペーターのことを描いたものなのだが、その汚らしさ、だらしなさがこれでもかというほど誇張され描かれている。こんな風にならないためにも、ちゃんと身だしなみには気をつけましょうねということなのだろうが、しかしこのペーター、言葉では説明できない、何かそれ以上のものを感じる。この過剰なグロテスクさが持つ説得力はどんな言葉よりも胸に迫るのだ。これはいったい何なのか?
-しつけとは-
人はなぜ働くのか?
なぜ盗んではいけないのか?
なぜ人を殺してはいけないのか?
これらの根源的な問いは、根源的であるがゆえに返答することができない。1+1=2が当たり前であるからこそ、もしくは1=1(自己同一性)を疑うことの無い大前提として受け入れているからこそ、科学的な考察は可能になる。それと同じように、盗まないという前提があってこそ経済活動は成り立つし、殺さないという前提があってこそ見知らぬ者とも同じ社会の中にいられるのだ。ありていに言えば、そのルールなくしては社会そのものが成り立たないから、ということだ。しかし裏を返せば、そのルールは人が本能だとか生得的に持っているものではなく、あくまで人により恣意的に作り出されたものだとも言える。
もちろん、“人を殺さないのは神との約束であるから”だとか、“みんなに迷惑をかけてはいけないから”といった倫理的道徳的理由は用意される。しかし一度、この根源的問いに疑問をもつ者が現れれば、言葉による説得は不可能になる。みんなでそうしようねと言ったところで、「いいや自分は従わない。どうして従わなくちゃいけないのか分からないから。」と言われればもうどうすることもできない。それが反社会的であるならば、後は強制的に社会から隔離するしか手立てがなくなるのだ。だからそうならないためにも、しつけ、ひいては教育というものは存在する。そしてしつけとは、理由に還元することができないものを身に付けさせるということなのだ。以前、「どうして人を殺してはいけないのか」と問うた子供に対し、誰もまともに答えられる大人がいなかったとか言って嘆く人がいたけど、そんなのはお門違いだ。その問いには答えることができない、それが正解だ。
それゆえ、しつけとは言葉を超えたもの、非言語的なものによってなされなければならない。結局人を動機付けるものとは、そういうレベルの話であり、言葉では説明できないからこそ強固なのだ。そう、話は思いっきりずれたけど、要するに「もじゃもじゃペーター」の魅力とは、そういう非言語的なところから訪れるナニカだ。この物語の残酷で非現実的な設定は、しかしどんな教育書よりも子供たちに浸透し、本当の意味で教育的だ。
そうだ、だからもし今社会に対して“根源的な疑問”を持っているのであるならば、今からでも遅くない、「もじゃもじゃペーター」を読むといい!親指を切られる少年や、灰になる少女の話とかを読んでいると、なんかとりあえず、ちゃんと生きていこうとかなと思えてくるから。理屈じゃなく。
-ゆびしゃぶりこぞうのおはなし-
「コンラート!」ママは言いました。
「ちょっと出かけてくるけど、お留守番してなさいね。帰ってくるまでちゃんといい子にしてるのよ。いいわね、コンラートよく聞きなさい。親指をしゃぶってはいけませんよ。言いつけ守らないと仕立て屋さんがすっ飛んできてはさみで指をちょん切っちゃうんだから。」
ママが出かけると、おっと、早速指しゃぶり。
バン!その時ドアが開いたかと思うと、すごい勢いで仕立て屋が、指しゃぶり小僧のところにやって来た。痛い!鋭い大きなはさみでちょっきんちょっきん!親指すぱっと切っちゃった。うわーん。コンラートは泣き叫ぶ。
ママが家に戻ってみると、コンラートはしょんぼりと、両手の親指失って、一人ぽつんと立っていた。
これはハインリッヒ・ホフマン(Heinrich Hoffmann)の絵本「もじゃもじゃペーター」(Der Struwwelpeter)の中にある一編、“指しゃぶり小僧のお話”だ。全部で十編からなるこの絵本は、精神科医であるホフマンが、3歳になる息子のクリスマスプレゼントとして自分で書いたものだという。翌年、友人の勧めで出版するとこれがたちまち評判になり、まもなくヨーロッパじゅうの言語に訳されるまでになる。日本ではあまり知られていないが、向こうでは結構絵本として古典なのだろう。
この本を知ったのは本当に偶然だった。天気の良いある日、たまたま立ち寄った上野公園を意味も無く歩いていると、とある看板が目に止まる。国立国会図書館でやっているという“もじゃもじゃペーターとドイツの子供の本”という展示会だった。気になったので、何気に立ち寄ってみたところ、これが個人的に大ヒットだ。言いつけを守らないでひどい目にあう子供達の話を集めたこの絵本は、他にもマッチで遊んでいたら火が全身に燃え移って灰になる女の子、“とても悲しい火遊びのお話”だとか、スープを飲むのを嫌がってやせ細って死ぬ男の子、“スープ・カスパーのお話”なんていうのもある。一見すると残酷で不条理なお話も、ホフマンの味のある絵とあいまって、なんともいえない魅力を醸し出している。
そもそもこの本のタイトルである「もじゃもじゃペーター」とは、一年もの間爪も切らない、髪も伸ばし放題で放置する不潔な子供ペーターのことを描いたものなのだが、その汚らしさ、だらしなさがこれでもかというほど誇張され描かれている。こんな風にならないためにも、ちゃんと身だしなみには気をつけましょうねということなのだろうが、しかしこのペーター、言葉では説明できない、何かそれ以上のものを感じる。この過剰なグロテスクさが持つ説得力はどんな言葉よりも胸に迫るのだ。これはいったい何なのか?
-しつけとは-
人はなぜ働くのか?
なぜ盗んではいけないのか?
なぜ人を殺してはいけないのか?
これらの根源的な問いは、根源的であるがゆえに返答することができない。1+1=2が当たり前であるからこそ、もしくは1=1(自己同一性)を疑うことの無い大前提として受け入れているからこそ、科学的な考察は可能になる。それと同じように、盗まないという前提があってこそ経済活動は成り立つし、殺さないという前提があってこそ見知らぬ者とも同じ社会の中にいられるのだ。ありていに言えば、そのルールなくしては社会そのものが成り立たないから、ということだ。しかし裏を返せば、そのルールは人が本能だとか生得的に持っているものではなく、あくまで人により恣意的に作り出されたものだとも言える。
もちろん、“人を殺さないのは神との約束であるから”だとか、“みんなに迷惑をかけてはいけないから”といった倫理的道徳的理由は用意される。しかし一度、この根源的問いに疑問をもつ者が現れれば、言葉による説得は不可能になる。みんなでそうしようねと言ったところで、「いいや自分は従わない。どうして従わなくちゃいけないのか分からないから。」と言われればもうどうすることもできない。それが反社会的であるならば、後は強制的に社会から隔離するしか手立てがなくなるのだ。だからそうならないためにも、しつけ、ひいては教育というものは存在する。そしてしつけとは、理由に還元することができないものを身に付けさせるということなのだ。以前、「どうして人を殺してはいけないのか」と問うた子供に対し、誰もまともに答えられる大人がいなかったとか言って嘆く人がいたけど、そんなのはお門違いだ。その問いには答えることができない、それが正解だ。
それゆえ、しつけとは言葉を超えたもの、非言語的なものによってなされなければならない。結局人を動機付けるものとは、そういうレベルの話であり、言葉では説明できないからこそ強固なのだ。そう、話は思いっきりずれたけど、要するに「もじゃもじゃペーター」の魅力とは、そういう非言語的なところから訪れるナニカだ。この物語の残酷で非現実的な設定は、しかしどんな教育書よりも子供たちに浸透し、本当の意味で教育的だ。
そうだ、だからもし今社会に対して“根源的な疑問”を持っているのであるならば、今からでも遅くない、「もじゃもじゃペーター」を読むといい!親指を切られる少年や、灰になる少女の話とかを読んでいると、なんかとりあえず、ちゃんと生きていこうとかなと思えてくるから。理屈じゃなく。
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プロフィール
HN:
tes626
性別:
男性
自己紹介:
★座右の銘
どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし
★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。
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