システム内存在の不可能性の認識、及び全体性の恣意的生成の可能性について
茨城県取手市にある某ホテル7階の渡り廊下の窓から、千葉県の方角を眺めてみる。利根川に架かる常磐線の鉄橋が8月の熱気にゆらゆらと揺れて歪んで見えた。紫外線は容赦なく降り注ぎ、目の奥に鈍い痛みを残す。その体感的かつ視覚的熱気に思わずその場にへたり込みそうになる。これはまずい。早々にその場を離れると、急ぎ自室に舞い戻ってエアコンをガンガンに利かせ、ベッドに飛び込んで目を閉じる。
特に観光地としてのイメージがあまり無い茨城県にやってきたのは他でもない。どうも茨城県牛久市というところに世界最大の大仏があるという話を小耳に挟んだためだ。調べによるとその大仏、全長が120メートルもあるらしい。その話を聞いてまず初めに思ったのが、そもそも何でそんな巨大な像を造ってしまったのかという純粋な疑問だ。全国各地の観光地には確かに、20メートル程度の仏像やら観音像があるのは知っている。それとて人々の耳目を引くには十分な大きさだろう。だが120メートルともなれば話は別だ。どだい大きすぎる。純粋に客寄せのために造るにはあまりに大袈裟だ。
信仰心?まさか。きっと、そんな過剰なものを造ってしまうような何かが現地にはあるに違いないのだ。巨大大仏建立の裏に隠された秘密、もしくは秘められた思い、それを探りに行こうではないか。そう考えたのがそもそもの始まりだ。
日帰りで行けないこともないが、折角なので泊まりがけで行くことにした。検索した結果、牛久周辺に手ごろな宿泊施設がなかったため、近くにある取手市というところで一泊し、翌日牛久へ行くことに決めた。うだるように暑いお盆休みの最中であった。
8月13日、午後1時、牛久駅に降り立つ。気温35度。めまいのする暑さだ。大仏行きのバスを待つ間、周りの人々を観察してみる。やはりというかなんというか、老人が多い。観光というよりは、むしろ巡礼感覚なのだろうか。まあ確かに、大きいというただその一点で実際何かしらありがたそうではある。一度でも見ておけばきっと何らかのご利益があるに違いない。何に効くかは知らないけど。などと考えているうちにバスがやって来たので、そそくさと乗り込む。ほんのり冷えたバスの中でお茶を飲みつつぼんやり外を眺めていると、バスは程無くして大仏へ向けて発車した。
だいたい20分ぐらい過ぎたころだろうか。そろそろ何か見えてくるんじゃないかと窓の外を気にしていると、ふとバスの反対側の方から誰かの歓声にも似た声が聞こえてくる。そちらの方に目を向けてみると、それは唐突に視界に飛び込んできた。遠方に巨人がそびえたっている。それも、ものすごい大きさだ。周りに遮るものが何もないことがより一層その大きさを強調させ、その異様な様を周りに誇示している。これはすごい。…しかし何と言ったらいいだろう、すごく笑えるのだ。それは畏怖の対象というよりはむしろ、面白おかしい巨大アトラクションのようであり、実際あれを見上げる人々の表情も一様に苦笑混じりである。“大仏”が“デカイ”という二つの要素が入り混じることによりある種の滑稽さを醸し出していて、そのことがとてつもなくおかしいのだ。
バスが目的地にたどり着く。人々は一斉にあの巨大像へ向けて歩き出す。片時も目をそらすことなく大仏に向かって歩きながら、ふとあることを思い出す。社会心理学の話なのだが、何かが人々の注目を集める時、それが濃密であればあるほど、奇妙なことにその周辺にいる人々はお互いの連帯を強めることがあるという。たとえばカリスマと呼ばれる者が停滞した社会に現れると、一気に活性化して、ばらばらであった社会に統制が見られることがあるという。安直な例だがヒトラーなどがそうだ。そしてここで重要なのは、カリスマが“何をしたか”ということではなく、“どんな佇まいであるのか”という点にある。カリスマのスゴさというのは、その行為に帰せられるのではなく、その存在自体によって決まる。ただそこにいるだけで他者を圧倒する存在、それが本来の意味でのカリスマだ。そう、例えばあの大仏のように。
近隣住民はきっと毎日毎日あの大仏を意識的にしろ無意識的にしろ注目していることだろう。するとどうなるか。おそらく大仏を中心とした周囲一帯に一種の連帯感が形成されているのではないだろうか。大仏が引き起こす変性意識、つまり大仏ハイによってみんなが繋がり、包摂される。なるほど、巨大なものを造るということの意味とか意義というのは多分そんなところにあるに違いない。実際に来て確かめてみてよく分かった。
暑い。うだるような暑さだ。裸眼で大仏を見上げているせいか、紫外線で目の奥がジンジンとしてくる。入口から大仏へと続く道に、日陰となるようなものは一切なく、直射日光をじかに浴びながら歩いていると段々と暑さで意識が朦朧としてくる。するとどうだろう。なんだかあの大仏が神々しく思えてきて、後光すら射しているような感じがしてくるではないか。くらくらする頭で、これは単に暑さのせいなのか、いやひょっとすると本当にあの大仏の威光にやられてしまったのか、などと冗談半分考えてみる。あながち冗談ではないのかもしれないと思い、ふと大仏を見上げてみると、そこにはあの笑いの対象であったはずの大仏が威厳をもって堂々と微動だにせず、ただひたすら無表情に虚空を見つめて立っているのだった。
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自己紹介:
★座右の銘
どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし
★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。
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