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システム内存在の不可能性の認識、及び全体性の恣意的生成の可能性について
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ギシ、ガタ、ギシ、ガタ



耳を澄ますと、低いモーター音と少し老朽化した古めかしい機械の軋む音、そして時折隙間から流れ込んでくる風と、遠くで賑わう人々の声が聞こえてくる。
今、東武動物公園にある観覧車の狭い空間の中で、一人、なんとなく手持ち無沙汰で佇んでいる。別段快晴というわけでもなく、むしろどことなく曇っていて見晴らしも悪く、風が少し強めに吹いているだけだった。
なぜ自分は一人でこんなところにいるのか。

きっかけはこうだ。
ある日ネット上を目的もなくあちこち徘徊していた時、とあるホームページで一人で観覧車に乗る男の話しを見つけた。それにはこうあった。

 

“日常生活に追われる中、ふとしたきっかけで立ち寄った観覧車を見て、昔の楽しかったころの自分に戻れるんじゃないかと思い乗ってみた。しかし、下界に見える人々は、始めから自分なんか存在していないかのようにうごめいて、遠くのスピーカーから聞こえる音の割れた音楽とあいまって、さらに孤独感と疎外感を強めてしまった…。”


この話を読んだとき、この人には悪いんだけど、思わず苦笑してしまった。たかだか十数分周りから隔離されただけで人間の孤独だって?いや、もちろん非日常的な場所で本来数人で乗るべきものに一人で乗っているという特殊状況があるにせよ、それはないだろう、簡単すぎやしないか、と。でも同時にちょっとうらやましいなとも思った。そんなに簡単に人の根源的孤独を感じられるもんなら、それはそれですごく貴重な体験なんじゃないかと。それなら自分も実際にやってみるしかないだろう…


ギシ、ガタ、ギシ、ガタ


またゴンドラが軋む。高さはもうほとんど頭頂部あたりにまで到達しそうだ。隣前のゴンドラに乗っていたのは父親と娘の二人連れで、後ろは定番のカップル。おそらくこの観覧車に一人で乗っているのは、ここにいる物好きただ一人だろう。確かに眼下では多くの人々がざわめき、笑い、各々が自分とは何の関連もなく行きかってはいるのだが…

正直な感想を言うと、何も感じなかった。まったく何も感じなかった。寂しいという感情すらわかない。この日はすでに2回乗っている。1回目の時は、若干高さに対する怖さみたいなものもあったが、それもすぐに慣れてしまった。これはどういうことだ。あのホームページの男と自分と何が違うのか…
大層な人間の孤独なんてものも、結局は一時的な人間の感傷でしかなく、それですらいつかは慣れてしまう。飽きてしまった、つまりそういうことなんだな。つまらない。本当につまらない。


ギシ、ガタ、ギシ、ガタ


そんなことを考えつつ、すでに四分の三を過ぎ去った観覧車の狭苦しいゴンドラの中で、虚空を見つめて微動だにせず、地上に降り立つのをただじっと待っているのだった。

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プロフィール
HN:
tes626
性別:
男性
自己紹介:
★座右の銘
どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし

★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。
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