システム内存在の不可能性の認識、及び全体性の恣意的生成の可能性について
まずこれだけは言っておきたい。一番最初にシイタケに肉を詰めた人間は天才であると。なぜか。普通シイタケを調理しようとする場合、せいぜい考えられるのは、煮込むだとか、細かく切り刻んで他の食材と一緒に炒めたりだとか、それぐらいのものじゃないだろうか。一般的に好き嫌いが激しく、クセがあって正直それほど人気があるとは言えないシイタケ。“体に良いから”という、嘘だか本当だか分からない漠然とした理由によって(いや、理由はあるのかもしれないが個人的には知らない)食されることの方が多いに違いない、そんなマイナーな食材シイタケ。それを美味しく、且つ美しく調理するには一体どうすればいいのか。そんな無謀な問いに解決策を与えたのが、他でもない、シイタケに肉を詰める行為だ。
かつてゲーデルは“不完全性定理”により次のことを証明した。
この世界の内部では、理論的に物事を進めて得た結果でさえ、必ずしもそれが最良であるとは限らない。むしろ期待はずれのことも多く、確実に成果へと導くには至らないことしきりだ。
革新的なものは世界の外側から訪れてくる。論理ではなく、むしろ直感的な何かだ。シイタケの調理法を論理的に考えていても、思いつくのはせいぜい過去のレシピの陳腐な組み合わせぐらいのものだろう。シイタケに肉を詰める。こんな革新的な発想をどうにかして恣意的に得ることはできないものか。
という発想のもと、それに類する事象、出来事を書き連ねていくことを目的としてこのブログは立ち上がったというわけだ。分かっていると思うが、半分冗談で半分大真面目である。

かつてゲーデルは“不完全性定理”により次のことを証明した。
「ある理論体系は、自らに矛盾がないことをその理論体系内部においては証明することができない。」
この世界の内部では、理論的に物事を進めて得た結果でさえ、必ずしもそれが最良であるとは限らない。むしろ期待はずれのことも多く、確実に成果へと導くには至らないことしきりだ。
革新的なものは世界の外側から訪れてくる。論理ではなく、むしろ直感的な何かだ。シイタケの調理法を論理的に考えていても、思いつくのはせいぜい過去のレシピの陳腐な組み合わせぐらいのものだろう。シイタケに肉を詰める。こんな革新的な発想をどうにかして恣意的に得ることはできないものか。
という発想のもと、それに類する事象、出来事を書き連ねていくことを目的としてこのブログは立ち上がったというわけだ。分かっていると思うが、半分冗談で半分大真面目である。
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自己紹介:
★座右の銘
どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし
★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。
どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし
★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。
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