それがもうすでにどこにも売ってないと気付いたのは、9月に入って二、三週間ぐらいたったころだろうか。悪いことに、入手困難になって初めてそれが欲しことに気付く。まあ、そもそも気まぐれとはそういうものだ。普段は別段気にも掛けないものが、ある日突然思いつきで気になってしょうがなくなる。今回も正にそうだ。もう時間がないことは分かっている。この機会を逃せば、今年はもう絶対に手に入れることはできないだろう。無論、まがいものなら手に入るかもしれないが、それでは駄目だ。なんとなくそう思う。そんなワケであちこちのスーパーやら八百屋やらを物色する羽目になるのだが。
スイカが食べたいと久しぶりに思った。あればあるで特に気にもせずに食べるものだけど、取り立ててスイカが食べたいなんて思うことは正直無い。甘いものなら他にいくらでもあるし、喉が渇いたのなら渇きを癒す方法なんていくらでもある。しかし今回はそうじゃない。スイカだ。スイカじゃなくちゃ駄目だ。夏の風物詩だからどうとか、スイカに含まれるリコピンが健康に良いからだとか、そういうことではない。突然スイカが自分の中に降りてきて、気になってしょうがない。そんな感じだ。しかも温室栽培でぬくぬく育ったような一年中いつでも食べられるスイカではなく、今年の夏の強烈な日差しを浴びて採れたホンモノのスイカがどうしても食べたい。そんなわけの分からない衝動に駆られつつ、今日も今日とてあちこちの店を回ってみたりするのだが、これで何件目だろう、本当にどこにもない。そして気付いた。もう時期が過ぎてしまったのだと。
何かが貴重だと感じるのは、その時期が終わりに近づいてきてからというのはある意味興味深い。同じスイカでも、一年中手に入るものとしてのスイカと、今期最後であるスイカとではやはり何かが違う。今年限りという一回性と不可逆性が特別という概念を生み出す。特別という概念は、“始まり”と“終わり”が存在して始めて認識されるものだ。特別なもの、かけがえのないもの、その断片を今年のスイカの中に見たのだった。
そこで、始まりと終わりについて深く考えてみた。
深度1 始まり
何かが“存在”している、ということを証明するために必要なものが2つある。一つ目は、“ない”という状態と“ある”という状態を分かつ境界。二つ目は“ない”という領域(境界の外側)と、何かが“ある”という領域(境界の内側)を俯瞰する、二つの領域をまたぐ視点。この俯瞰する視点から境界内部の存在を指し示すことにより、初めて何かが存在すると証明することができる。境界の外部からの視点があって初めて“存在”は規定される。そしてこの境界を認識することを“始まり”と呼ぶ。
深度2 終わり
何かが終わるとは連続性の断絶を意味する。断絶するものとは、“ある”と“ない”を分かつ境界の方か、もしくはそれを見つめる視座のどちらかだ。前者が断絶するとは、規定された対象自体の消滅のことであり、後者の断絶とは、その存在を規定する意味づけそのものの消滅のことだ。
深度3 特別と永遠
特別という概念を、始まりと終わりのある世界の中の希少な何かであると規定するならば、永遠とはちょうどその反対にあたるものと言える。つまり、始まりや終わりを規定する境界がない、もしくは境界の内にも外にも偏在し、現れることも消えることもなくただ存在する何か、ということである。始まりと終わりがある世界において、何かがふと、境界の内側にありながら外側を垣間見せる時、その何かは初めて特別なものとなりうる。特別を特別たらしめるのは、その向こうに“永遠”を見せるからであり、有限性の中に立ち現れる普遍性こそが特別の源になるのである。
そして、えいえんのスイカを夢想する。赤く瑞々しいそれにかぶりつき喉を潤す瞬間を。それは甘く涼しげで、そしてなんだか懐かしい感じがした。
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★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。