古めかしい引き戸を開け、坑道への下りの階段に一歩足を踏み入れると、夏とは思えない寒々しい冷気が奥の暗闇からひんやりと漂って来る。8月の坑内の気温は11℃、目の前の看板にはそう記してある。あの薄っぺらい扉一つ隔てて、蒸し暑い夏の日からいきなり別世界へと連れ去られ、どこか薄ら寒い感覚を覚える。一歩一歩階段を下りていくごとに広大な暗闇へと一体化していく妙な高揚感。この空間を創り上げた人間の労力と執念を思うとき、なぜだか軽い眩暈に襲われ、一瞬ここがどこなのかを忘れそうになる。今自分はどこを歩いているのか…。
ここは栃木県宇都宮市大谷町にある大谷資料館。かつて大谷石の大規模な採掘場であったところを現在資料館として展示している巨大地下空間の中だ。1919年(大正8年)から1986年(昭和61年)までの約70年かけて掘り出されたこの空間は、広さにして2万平方メートルにも及ぶ。戦時中は地下の秘密工場として利用されたこともあるそうだが、現在ではコンサートや美術展などのさまざまなイベント会場としても広く活用されている。戦前、まだ切り出した石塊を一つ一つ背負って運び出していた当時の資料なども展示してあり、なかなか歴史を感じさせるつくりになっている。
特に予定のないお盆休み。暇なのでどこかに行こうかと思ってネット上で色々と観光地を物色していると、ふとこの場所に目が止まる。子供の頃に連れて来られたというかすかな記憶が蘇る。しかし記憶の余韻に浸ろうと色々と思いを巡らせてみても、帰ってくるのはただ暗くて広い洞窟を黙々と歩いている漠然とした印象だけだった。暗闇の中を歩く、それはどんな感じだったのか。奇しくも前日、東京で大規模な停電が起こった。そのニュースを他人事としてぼんやりとテレビで眺めていると、それが妙に気になりだす。暗闇の中を歩く、それはどんな気分なのか。確かめてみるか…。
午後一時。宇都宮駅からバスに乗り込む。乗客は数えるほどしかいない。30分ぐらいバスに揺られ、目的地の資料館前にたどり着いたときには、すでに自分以外誰もいなくなっていた。降り口で小銭を両替していると運転手が話しかけてくる。
「資料館へ行くんですか?それならあの赤い屋根の見えるところを右へ曲がってすぐですよ…」
運転手に教えられた通りに歩いて行くと、切り立った岩山のふもとにそれはあった。横穴から吹き付ける風の冷たさが、この先の坑内の大きさを連想させる。受付で入場料を払う。目の前に資料室があり、その横には坑道へと続く引き戸が見える。戸を開け、寂びれた窓ガラスから降り注ぐ真夏の日の光を背に、奥へ奥へと一歩ずつ階段を下りていくとそこには…
軽い眩暈を振り払い、奥へと続く幻想的なランプの光に導かれるまま先へと進む。すると辺りは急に開け、眼前に見渡す限りの巨大空間が姿を現す。広大な暗闇は徐々に身体と調和を始め、何ともいえない開放感が訪れる。秘密工場跡、天井の穴から降り注ぐ淡い光、美しくライトアップされたオブジェ。それらが不思議な魅力を持って闇の中から浮かび上がってくる。
所々にあるむき出しの採掘跡はかつてそこにいた人間の年月を甦らせ、自分がここにいること自体を不思議な気にさせる。少し湿った石壁に触れる。指に砂状のざらざらした感覚を残し、この石は柔らかいのではないかとの錯覚を引き起こした。そして…。
そして…しばらくこの暗闇の中を歩いているとこんな考えが頭をよぎる
もし昨日起こった停電が今ここで起きたとしたら…
不覚にも笑みがこぼれる
この闇の中に溶け込んでしまうとしたら、
それはきっとものすごく美しいことなんじゃないかと…
この闇と融合できさえすれば
それはきっと…
……そんな無責任な空想に身をゆだね、すっかり闇に魅せられた身体は、しかし出口付近の外界から入り込む光によって、急速に現実へと引き戻される。
夏緑性の草木が顔をのぞかせ生い茂るその景色は、言い知れぬ物悲しさを漂わせ、夏の蒸し暑い風と共に胸に染み渡って来る。
その光景は緑に光り輝き、そして微かに風にそよいでいるのだった。
そのレストランに入ったのは一時を五分ほど過ぎた頃だったと思う。まだまだ昼時だ。店内には学生やら家族連れやらでごった返し、一様にざわめき立っている。本来タバコは吸わないのだが、喫煙席ならすぐ座れるということなので、そっちに座ることにする。まあ、正直どっちでもいい。むしろ周りにあまり人がいなければ好都合だ。案の定、連れて来られた席は、隣に一組のビジネスマン風の客が談笑しているのみで、人は比較的まばらだった。程なくするとその二人も席を立ち、両隣には誰もいなくなる。いい感じだ。
メニューを取り出す。ちらっと形ばかり目を通すと、すぐにウェイターを呼んで注文する。デカンタワインの赤とアンチョビのピザ。実のところ頼むものは店に入る前からすでに決めていた。計画通りだ。注文を済ませると、メニューを放り出して再び辺りを確認する。ウェイターは立ち去った。他の客は、誰もが自分らの話に夢中で周りを気にかけるものなど誰一人いない。
バッグに手を入れて中の物を確認する。家から持参したそれはちゃんと入っている。大丈夫だ。後は料理が運ばれてくるのを待つばかり。
それにしても、だ。カバンに手を突っ込みながら周りを気にする様は、明らかに不審行為だ。我ながら何とかならないものか。まあ、実際ちょっとビクついていたのは確かだ。この緊張感は、店の喧騒から自分をほんの少しだけ浮き上がらせる。
とその時、ウェイターがベビーカーを引いた親子連れを、隣の席に案内してきた。各々が席に着くとメニューを物色しながら、たわいのない話を始める。まずい。これではおおっぴらに“行動”することが出来ない。気になってちらちらと隣の席の様子見をしていると、ふとベビーカーの中の赤ん坊と目が合う。くすりとも笑わない。その子と5秒ほどにらめっこしてしまったが、こっちが根負けして目をそらしてしまった。家族の者は選ぶのに忙しくてこちらには気付いていない。まあ、とりあえずは大丈夫か。
料理が運ばれてきた。ワイングラスは程良く冷えていて、白い冷気に曇っている。しばらくそのグラスを眺めた後、そこにワインを注いでみる。通と呼ばれる人間はここでグラスでも振って香りなんかを楽しむものなんだろうけど、いかんせんこの安ワインにはそぐわない行為だ。一口くちに含んでグラスを置き、再び眺めながら考える。
馬鹿げた諧謔心。恒常性への抗い。人が羽目を外す理由は様々だ。だが羽目を外すという行為そのものは普遍であり、生きていくうえで必要不可欠なものである。しかし、それを認識している者は案外少ない。大抵無意識か偶発的に訪れるそれを期待して破滅的な振る舞いをしがちだ。そして失敗する。だがそれではダメだ。別に大層な非日常なんて訪れる必要はない。ほんのちょっとした違い。惰性からほんの一ミリずれさえすればいいのだ。いつもと違ったことを意識的に取り入れるだけで日常は簡単に楽になる。歩いたことのない道を歩いてみるのもいい。入ったことのない店を訪れてみたり、料理の味付けを変えてみたり。そして…
しばらくワイングラスを眺めていたが、意を決してカバンに手を伸ばす。家から持参した10gパックのハチミツを取り出すと、おもむろにワインに注いだ。ねっとりとした蜜はゆっくりとグラスの中へと落ちて行き、底の方へと沈殿していく。ストローで強引にかき回すと、そこには得体の知れない飲み物が出現した。以前より深みを増した美しいルビー色の液体。もしくは単なるゲテモノ。いや、そんなことはどっちでもいい。今はただ、この馬鹿げた創作物を純粋に楽しんでみるのだった。
2杯目を飲み終える頃、軽い酩酊感が訪れる。店内のざわめきから引き剥がされ、浮き足立った気分で辺りを見渡すと、再び先程の赤ん坊と目が合う。相変わらずくすりともしない。一心不乱にこちらを見つめる眼差しは、しかしさっきと違って何かを訴えているように感じられる。きっとこう言っているに違いない。
「やあ、この店で浮いているのはキミとボクの二人だけだね」
ああ、そうかもな。そんな妄想が頭をかすめ、ついおかしくて苦笑する。すると今度は赤ん坊の方が関心なさげに目をそらし、ベビーカーの中でじたばたと暴れだすのだった。
特に行く先は決めない。いつもの事だ。気分によってはただコンビニをはしごするだけだったり、昔通った中学校の前を歩いてみたり、普段利用しない駅に行っては構内をぶらついてみたりする。そうした偶発的な場所が気分を高揚させた。
だがどうしたことだろう。今日に限って中々楽しい気分になれないでいた。雨がいけないのではない。また、ちょっと壊れかけた傘がいけないのでもない。むしろそういったイレギュラーな出来事は、よりいっそう状況を楽しくさせるはずなのだ。ただ何となく今日は心の中に蓄積したモヤモヤがいつまでも残って離れない。
別に何か理由があって気分が晴れないのではない。財布を落としただとか、家が火事になったなんていう分かりやすい出来事があるならまだしも、おかげさまで苦厄災難とはまったくもって無縁で生きている。人間関係に問題など抱えていないし、体も心もすこぶる健康。もちろん借金もない。当然世界情勢を憂いているなんてこともなければ、日本の行く末を案ずるなどということも断じてない。ただ漠然とした居心地の悪さが、厳然としてそこにあるのだった。
そんな折、24時間営業のスーパーの前を通りかかった。別に取り立てて買い物があるわけではなかったが、特に行くあてがあるわけではないのでふらりと立ち寄ってみる。時間はPM9:30を過ぎたぐらいだったと思う。入ってみて驚くのは人の多さだ。こんな時間にたくさん人がいるはずがないと思うが、そうではない。むしろこの時間帯は狙い目なのだ。なにがって、食品売り場では今頃がちょうど商品の値引きが始まるのだ。パン売り場では全品100円均一になっていて、我先に高いパンを手に入れようと人だかりができている。
華やかな青果売り場の前を通る。やけに大きなメロンの玉が、こんな夜だというのにうずたかく積まれている。バナナやオレンジといったありふれたものだけではない。世界中から取り寄せたと思しき原色の果物があちらこちらに飾られ、買い物客の耳目を引く。
しかしそうした華やかさはむしろ居心地の悪さを増殖させ、そぐわない感覚をよりいっそう強めてしまうのだった。
もう出ようか。そう思い始めたとき、ふとそれに目が留まった。賞味期限間近の青果が、値引きされパック詰めにされて、ワゴンの上に集めて置かれている。少し黒ずんだバナナだとか、いかにも売れなさそうな赤ピーマンの束。その横に、見たことのない、ピンポン玉位の大きさのものが一個、袋詰めにされて置いてあった。
マンゴスチン
袋にはそう書かれていた。聞いたことはある。袋にはアメリカ産と書いてあるが、それは多分違う。おそらくレモンか何かを詰める袋を流用しただけで、本当はアジアの国のどこかから来ているはずだ。遥々遠くの国から輸入されておきながら、売れずに安価で適当に放り出されている果物。しかしそれが妙に気を引いた。50円だ。それ一個だけをレジに持って行き、会計を済ませると、意気揚々と帰路についた。モヤモヤした気分はいつの間にか消え、なんだか妙に楽しかった。
家に帰ってきて早速考える。これはどうやって食べるのか。ネットで調べてみると、やはりこれはタイ産だった。それまではミカンコミバエという害虫がいるため日本への輸入は長年規制されていたそうだが、蒸熱処理による殺虫試験が有効であることが分かり解禁になったという。
まあ、とりあえずそんな豆知識はどうでもよく、なにはともあれ包丁を入れてみた。不思議な形状をしたその実をしばらくシゲシゲと眺めつつ、一粒口に放り込む。甘くもあり、すっぱくもあるその果実は、ねっとりと舌に絡みついて、すぐに消えた。今まで食べたことのない、それゆえ記憶に残りにくい感じのものだった。あっという間に全部食べ終わり、しばらくすると直ぐにどんな味だったのか忘れてしまった。
忘れてしまった。さっきまで抱えていた漠然とした違和感と同じように。確固として現実であったものも、結局忘れてしまえばもうどうでもいいことになってしまう。まあ、売れ残った果実にはふさわしいことなのもしれないな、なんてことをちょっと妄想して、なんだか一人納得してほくそ笑むのだった。
-ゆびしゃぶりこぞうのおはなし-
「コンラート!」ママは言いました。
「ちょっと出かけてくるけど、お留守番してなさいね。帰ってくるまでちゃんといい子にしてるのよ。いいわね、コンラートよく聞きなさい。親指をしゃぶってはいけませんよ。言いつけ守らないと仕立て屋さんがすっ飛んできてはさみで指をちょん切っちゃうんだから。」
ママが出かけると、おっと、早速指しゃぶり。
バン!その時ドアが開いたかと思うと、すごい勢いで仕立て屋が、指しゃぶり小僧のところにやって来た。痛い!鋭い大きなはさみでちょっきんちょっきん!親指すぱっと切っちゃった。うわーん。コンラートは泣き叫ぶ。
ママが家に戻ってみると、コンラートはしょんぼりと、両手の親指失って、一人ぽつんと立っていた。
これはハインリッヒ・ホフマン(Heinrich Hoffmann)の絵本「もじゃもじゃペーター」(Der Struwwelpeter)の中にある一編、“指しゃぶり小僧のお話”だ。全部で十編からなるこの絵本は、精神科医であるホフマンが、3歳になる息子のクリスマスプレゼントとして自分で書いたものだという。翌年、友人の勧めで出版するとこれがたちまち評判になり、まもなくヨーロッパじゅうの言語に訳されるまでになる。日本ではあまり知られていないが、向こうでは結構絵本として古典なのだろう。
この本を知ったのは本当に偶然だった。天気の良いある日、たまたま立ち寄った上野公園を意味も無く歩いていると、とある看板が目に止まる。国立国会図書館でやっているという“もじゃもじゃペーターとドイツの子供の本”という展示会だった。気になったので、何気に立ち寄ってみたところ、これが個人的に大ヒットだ。言いつけを守らないでひどい目にあう子供達の話を集めたこの絵本は、他にもマッチで遊んでいたら火が全身に燃え移って灰になる女の子、“とても悲しい火遊びのお話”だとか、スープを飲むのを嫌がってやせ細って死ぬ男の子、“スープ・カスパーのお話”なんていうのもある。一見すると残酷で不条理なお話も、ホフマンの味のある絵とあいまって、なんともいえない魅力を醸し出している。
そもそもこの本のタイトルである「もじゃもじゃペーター」とは、一年もの間爪も切らない、髪も伸ばし放題で放置する不潔な子供ペーターのことを描いたものなのだが、その汚らしさ、だらしなさがこれでもかというほど誇張され描かれている。こんな風にならないためにも、ちゃんと身だしなみには気をつけましょうねということなのだろうが、しかしこのペーター、言葉では説明できない、何かそれ以上のものを感じる。この過剰なグロテスクさが持つ説得力はどんな言葉よりも胸に迫るのだ。これはいったい何なのか?
-しつけとは-
人はなぜ働くのか?
なぜ盗んではいけないのか?
なぜ人を殺してはいけないのか?
これらの根源的な問いは、根源的であるがゆえに返答することができない。1+1=2が当たり前であるからこそ、もしくは1=1(自己同一性)を疑うことの無い大前提として受け入れているからこそ、科学的な考察は可能になる。それと同じように、盗まないという前提があってこそ経済活動は成り立つし、殺さないという前提があってこそ見知らぬ者とも同じ社会の中にいられるのだ。ありていに言えば、そのルールなくしては社会そのものが成り立たないから、ということだ。しかし裏を返せば、そのルールは人が本能だとか生得的に持っているものではなく、あくまで人により恣意的に作り出されたものだとも言える。
もちろん、“人を殺さないのは神との約束であるから”だとか、“みんなに迷惑をかけてはいけないから”といった倫理的道徳的理由は用意される。しかし一度、この根源的問いに疑問をもつ者が現れれば、言葉による説得は不可能になる。みんなでそうしようねと言ったところで、「いいや自分は従わない。どうして従わなくちゃいけないのか分からないから。」と言われればもうどうすることもできない。それが反社会的であるならば、後は強制的に社会から隔離するしか手立てがなくなるのだ。だからそうならないためにも、しつけ、ひいては教育というものは存在する。そしてしつけとは、理由に還元することができないものを身に付けさせるということなのだ。以前、「どうして人を殺してはいけないのか」と問うた子供に対し、誰もまともに答えられる大人がいなかったとか言って嘆く人がいたけど、そんなのはお門違いだ。その問いには答えることができない、それが正解だ。
それゆえ、しつけとは言葉を超えたもの、非言語的なものによってなされなければならない。結局人を動機付けるものとは、そういうレベルの話であり、言葉では説明できないからこそ強固なのだ。そう、話は思いっきりずれたけど、要するに「もじゃもじゃペーター」の魅力とは、そういう非言語的なところから訪れるナニカだ。この物語の残酷で非現実的な設定は、しかしどんな教育書よりも子供たちに浸透し、本当の意味で教育的だ。
そうだ、だからもし今社会に対して“根源的な疑問”を持っているのであるならば、今からでも遅くない、「もじゃもじゃペーター」を読むといい!親指を切られる少年や、灰になる少女の話とかを読んでいると、なんかとりあえず、ちゃんと生きていこうとかなと思えてくるから。理屈じゃなく。
PM4:00。とあるビジネスホテルにチェックインし、フロントで差し出された209号室のキーを使って薄暗いシングルルームの部屋を開けたのは、2006年5月4日、ゴールデンウィークの真っ只中のことだった。部屋に入ってすぐ右側に、タブレット差込口がある。ここにキーを差込むと部屋全体に電気が通る仕組みだ。明かりを付けてほの暗い部屋を照らす。本当にこじんまりとした、ベッドだけがやけに大きい空間が広がる。このベッドを除けば、どこにでもあるようなワンルームマンションの一室だ。荷物をベッドに放り投げ、自宅から持ち込んだノートパソコンを開いてとりあえずネットにつなげる。部屋には無料インターネット用の接続口が用意されており、自分でパソコンを用意すればいくらでも使えるようになっている。
狭い部屋だ。ユニットバスや簡易冷蔵庫などを見てしまえば後は取り立てて見るものなど無い。窓からの景色は隣のビルの壁しかなく、聞こえてくるのは車と電車の騒音だけだ。
ここは東横インさいたま新都心。自宅から自転車で15分もあれば着いてしまうような、まったくの近場だ。もちろんそんなところに宿なんて取る必要などどこにもなく、下手をすれば歩いて戻れてしまうような日常的風景の一部である。なぜこんなところに一泊してみようと思ったのか。
東横イン。そう、障害者用の設備を不正改造したことで全国的に有名になってしまったあのビジネスホテルだ。その後の記者会見での社長の悪びれない態度がさらに反感を呼び、あちこちで論争を巻き起こしたこのホテルのホームページには、今でも謝罪の文言がトップページに踊っている。
このホームページに、コンセプトと称した次の一文を見つけた。
リゾートホテルやシティホテル、温泉宿のように、お客様の 「ハレの日」 「非日常の楽しみ」の場を提供するための豪華な施設やゆったりしたスペース、至れり尽くせりの人的サービスはご用意していません。出張やお仕事で遅くなったお客様が日常生活の延長としてお泊まりになるために必要にして十分な設備・サービスと安心で快適・清潔なお部屋を提供しますが、それ以外の余分なサービスや施設を省いた合理的な運営でリーズナブルな価格を実現しています。
結構洒落た外観のホテルで、明らかに非日常的な佇まいを呈しているこのホテルのコンセプトが、日常の場の提供だという。なんだか面白い話だ。どんなところなのかちょっと見てみたい、なんてことを常日頃漠然と考えていたところ、特に予定のなかったゴールデンウィーク初日の朝、突然ひらめいたというわけだ。
「そうだ、東横インに泊まろう」
PM10:00。どこかの部屋からか、バスタブにお湯を貯める音が聞こえてくる。さっきまで廊下で人の話す声も聞こえていたが、今は何も聞こえない。テレビ以外、娯楽と呼べるものは一切ない。ロビーには自由に使えるパソコンが置いてあるし、自動販売機でアルコールも売っているが、門限がないので何かしたければ外に行けばいい。ただ何となく何もする気にならず、だらだらテレビを見ているのも飽きたので、さっさと明かりを消してベッドにもぐりこんだ。真っ暗な空間。その中で漠然と考えた。
ハレとケ。ハレとは「非日常」のことであり、ケとは「日常」を意味する。日常生活を営むためのエネルギーが枯渇することをケガレ(褻・枯れ)とし、枯渇したケのエネルギーはハレの祭事を通じて回復するとされる。時はゴールデンウィーク真っ只中。日本中のケガレした人々は、ハレを求めていろんな場所へと旅立った。そんな中、この日常と非日常の混沌とした東横インの真っ暗な部屋の中では、いったいどんなことが起こるのか。確かめようと耳を澄ませてみたが何も聞こえず、いつの間にか眠りについていた。
翌朝、窓から漏れるほのかな明かりに目を覚ましてみると、この薄暗い部屋の中には、ただ日常の延長のみが静かに横たわっているのだった。
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どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし
★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。