-part1-
科学とは何か。それは世界にある諸事物、森羅万象を一般法則に基づいて規定することだ。換言すると、“これ”は“これ”であることを立証するシステムであり、“自己同一性”を担保する共通規格である。そして一度何かを“A”と規定することにより、それはA以外の何ものでもなくなる。例えばそれを“B”でもあり同時に“C”でもあるなどと主張することを、現代科学では「異常」と呼ぶ。そして規定し得ないものの存在を主張することを「非科学的」と呼ぶ。
それらがネガティブなイメージを持って語られるのは、社会や人間関係を正常に回すという前提に抵触するからであるが、それに触れない限りにおいては「異常なもの」「非科学的なもの」も社会との共存を許される。いやむしろ潤滑油として積極的に活用されることすらある。例えば「奇跡」という概念だ。
固定された“A”という存在は、規定されているが故に、決して“B”になることができない。AとBの間の絶対的溝の存在は自己同一性を確立した現代人にとっては半ば自明のことであり、現代科学を前提にして回る社会は、必然的にこの溝を引き受けて生きていくことになる。陳腐だが切実でもある“現代社会の孤独”というフレーズには意味があり、それを認識することを「絶望」と呼ぶ。A=Bにはなり得ない。人と人は分かり合えない。もしそれが可能であるならば、それこそ奇跡であると。
決して交じり合うことのない存在同士が繋がる。「奇跡」とはそういう意味だ。そして社会はそれを必要とし、不条理と知りつつもそんな希望にすがる。
-part2-
ある日電車に乗っていると、とても気持ちの悪い物を見た。骨や神経が見えやすいようなかたちで、あちこち切り刻まれている人体の標本。そんなものがでかでかと載っているつり革広告だった。
-人体の不思議展-
「からだのなか、見えないから、見たくなる。」
そう題された展示会のお知らせに興味を引かれ、じっくりと説明を読んでみると驚愕の事実を知らされる。“本展で展示されているすべての人体標本は、生前からの意志に基づく献体によって提供されたものです”とある。なんと、全部ホンモノの人体!それが所狭しと並んでいるというではないか。そんなすごい物があるのなら、これはぜひとも見に行かなくては…。
ということでさっそく次の休みの日、取るものもとりあえず展示会のあるさいたまスーパーアリーナまでやって来た。なんとなく即興で作った感じの展示場で、しかも1,500円という高めの入場料の割には人の入りもまあまあで、それなりの賑わいを見せている。まったく世の中物好きや野次馬には事欠かない。
と自分のことは棚に上げつつ中に入ってみると、この展示会の主旨についてかかれた大きなプレートが目に入る。曰く『人体標本を通じて「人間とは」「命とは」を来場者に理解、実感していただく』こと、そしてそれを可能にした新技術たる『プラストミック標本』について。
人体保存において一番問題になる腐敗と収縮を防ぐため、まず遺体を真空状態に置き、そこに合成樹脂を浸透させることにより半永久的に保存することが可能になるというプラストミック技術。そのようにして作り出された人体標本が会場の至る所に展示されていた。
人の手がガラスケースの中に無造作に置かれている。その横にはスライスされた脳。剥き出しにされた肺、心臓、内臓。毛穴までくっきり残っている人の顔は輪切りにされ、歯の神経まで確認できる。癌に侵された臓器やら、アルツハイマー患者の脳までもがあり、成長過程の胎児にはうっすらと毛が生えていて、思った以上に人の形を成している。説明には生前からの意志に基づく献体によって提供されたとあるが、アルツハイマー患者や胎児に対してはどうやって合意を得たのだろうか。決して美談でないことは想像に難くない。
そんなことを考えているうちに、最初の好奇心は徐々に嫌悪へと変わり、目の前の人体は感情を持った人間というより、即物的な肉片の塊へと変容していく。
出口付近に一体、実際に触れることのできる標本があった。それを心置きなく突っつきまわしながら、“ああ、人の筋肉はビーフジャーキーのようだよ”なんてことを漠然と考えた。
-part3-
愛すべき人間。憎むこともあれ、常に愛してやまない他者。その対象たる肉体は、人と人を分かつ最後の壁だ。しかしその最後の壁を強引にこじ開けたところで、そこにあるのはただのグロテスクな肉片だけということを知っているだろうか。一つになりたいと欲してやまない相手の体は、時に醜悪な対象でありうることを感じたことはあるだろうか。そんな絶望的な精神を救うのは結局のところ“奇跡”だけなのだと、何となく思った。
ダリの絵を見た。例の上野でやってる回顧展だ。馬鹿みたいに混んでいて、入り口にいるスタッフが、チケットを買ってから中に入るまで45分待ちだと大声で叫んでいる。ずらっと並んだ人々の列の最後尾に向かいながら、美術展というのはこんなにも混むものなのかとちょっと辟易する。そもそも美術館なんてところにやって来るのは初めてだし、こちらもご多分に漏れず、ミーハー的野次馬的好奇心でやって来た大多数のうちの一人なのだが。何か美術展に行ってきたって言えばかっこいいかなぐらいの、ちょっとした虚栄心であることはまあ間違いない。
でもダリに興味があるのも事実ではある。それほど美術に関心があるわけでも、造詣が深いわけでもないけれど、シュールレアリスムに関してはちょっと心引かれるものがある。正直モネとかルノアールみたいな、いかにも芸術然とした印象派の美術展が開かれようと、おそらく行くことなんかないだろう。もちろん好みの問題だけど。印象派の絵は、観るものを弛緩させ、絵の世界と自分との関係を和らげるような、そんな“美しさそのもの”を表現したタイプのものだが、逆にダリを代表とするシュールレアリスムの絵は、鑑賞者をはねつけ、孤独にし、不安を喚起する、どこか偏執的な感じのするものだ。それが妙に魅力的だったりする。
そもそもシュールレアリスムとは何か。一応来る前に下調べはしておいた。
-シュールレアリスム-
理性によって規定された表層的世界に隣接する、規定し得ないものを表記していく芸術的運動。“非現実的”ということではなくむしろ過剰なまでに現実的という意味において、“超現実”と換言される。日常的な町並みや景色の中に見え隠れする「過剰さ」「強度」に晒されることにより訪れる精神的自由の喚起、開放を目的とする。思想的にフロイトの精神分析に強く影響を受け、無意識や集団の意識、夢、偶然等を重視して表現される。代表的な画家としては、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギー、ポール・デルヴォーなどがいる。
こんなところか。人がダリに求めるのは、写実的日常性の中に垣間見える不気味な“何か”だ。見えないものが見たい、そういう単純な衝動がダリの人気の本質ではないのかと個人的には思っていたりする。世界は見えているものがすべてではないということを確認するために、人々はわざわざこんなところまでやって来て行列をつくる。少なくとも自分はそうだ。
なんてことを思っている内に列ははけ、20分そこらで美術館内に入ることができた。館内入り口からは細長い通路になっていて、通路の壁にはダリについて、ダリ美術館についての説明が書いてある。しばらく歩くと絵画の展示場に出る。案の定一つ一つの画の前には黒山の人だかりが出来ていて、遠目にしか見ることができない。仕方がないので辛抱強く人が流れていくのをじっと待つ。少しずつ絵画の前へと近づいていくと、まず目に入るのが初期のダリの自画像だったり、彼の妹の肖像画だったりする。まあ、こんな物かな、なんてことを思いつつ観ていると、次の三つ並んだ作品の前で目が留まる。
・早春の日々 The First Days of Spring
・平均的官僚 The Average Bureaucrat
・手(良心の呵責) Hand (Remorse of Conscience)
不思議な絵だった。神秘的でいて、なおかつ細部まで緻密に描写され、どことなく現実味を漂わせている。ぎりぎりまで絵に近づいて凝視してみる。そして引く。そしてまた近づく。そんな事を数回繰り返す。絵を体感する、そんな感じで。
凝縮と弛緩。身体的な反復運動は徐々に対象との感覚的距離を縮め、周りの風景から自分を切り出すことに成功する。周囲の群集からいつの間にか切り離され、絵と自分だけが取り残される。神秘的で不気味な絵と共に。そこでは様々な悪夢やら白昼夢やらが、なぜかとても懐かしいような奇妙な感覚と共に訪れ、それに満たされている間中、なんだか妙に幸せだった。
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全ての絵を見終えて、出口付近にある売店にたどり着くころには、すっかり疲れ果て、目の奥がじんじんと痛んだ。すっかり喧騒へと立ち返り、今は周りの多くの人と共に売店のグッズを一つ一つ見て回る。特に気を引くものはなかったが、チュッパチャプスが売っていたのでそれを買った。チュッパチャプスのロゴはダリがデザインしたもの、というのを前にどこかテレビで見たような気もするが、舐めてみるとやっぱりそれはただのアメだった。
外に出てみるともうすでに薄暗く、冷ややかな外気だけがいつもよりはっきりと感じられた。
それがもうすでにどこにも売ってないと気付いたのは、9月に入って二、三週間ぐらいたったころだろうか。悪いことに、入手困難になって初めてそれが欲しことに気付く。まあ、そもそも気まぐれとはそういうものだ。普段は別段気にも掛けないものが、ある日突然思いつきで気になってしょうがなくなる。今回も正にそうだ。もう時間がないことは分かっている。この機会を逃せば、今年はもう絶対に手に入れることはできないだろう。無論、まがいものなら手に入るかもしれないが、それでは駄目だ。なんとなくそう思う。そんなワケであちこちのスーパーやら八百屋やらを物色する羽目になるのだが。
スイカが食べたいと久しぶりに思った。あればあるで特に気にもせずに食べるものだけど、取り立ててスイカが食べたいなんて思うことは正直無い。甘いものなら他にいくらでもあるし、喉が渇いたのなら渇きを癒す方法なんていくらでもある。しかし今回はそうじゃない。スイカだ。スイカじゃなくちゃ駄目だ。夏の風物詩だからどうとか、スイカに含まれるリコピンが健康に良いからだとか、そういうことではない。突然スイカが自分の中に降りてきて、気になってしょうがない。そんな感じだ。しかも温室栽培でぬくぬく育ったような一年中いつでも食べられるスイカではなく、今年の夏の強烈な日差しを浴びて採れたホンモノのスイカがどうしても食べたい。そんなわけの分からない衝動に駆られつつ、今日も今日とてあちこちの店を回ってみたりするのだが、これで何件目だろう、本当にどこにもない。そして気付いた。もう時期が過ぎてしまったのだと。
何かが貴重だと感じるのは、その時期が終わりに近づいてきてからというのはある意味興味深い。同じスイカでも、一年中手に入るものとしてのスイカと、今期最後であるスイカとではやはり何かが違う。今年限りという一回性と不可逆性が特別という概念を生み出す。特別という概念は、“始まり”と“終わり”が存在して始めて認識されるものだ。特別なもの、かけがえのないもの、その断片を今年のスイカの中に見たのだった。
そこで、始まりと終わりについて深く考えてみた。
深度1 始まり
何かが“存在”している、ということを証明するために必要なものが2つある。一つ目は、“ない”という状態と“ある”という状態を分かつ境界。二つ目は“ない”という領域(境界の外側)と、何かが“ある”という領域(境界の内側)を俯瞰する、二つの領域をまたぐ視点。この俯瞰する視点から境界内部の存在を指し示すことにより、初めて何かが存在すると証明することができる。境界の外部からの視点があって初めて“存在”は規定される。そしてこの境界を認識することを“始まり”と呼ぶ。
深度2 終わり
何かが終わるとは連続性の断絶を意味する。断絶するものとは、“ある”と“ない”を分かつ境界の方か、もしくはそれを見つめる視座のどちらかだ。前者が断絶するとは、規定された対象自体の消滅のことであり、後者の断絶とは、その存在を規定する意味づけそのものの消滅のことだ。
深度3 特別と永遠
特別という概念を、始まりと終わりのある世界の中の希少な何かであると規定するならば、永遠とはちょうどその反対にあたるものと言える。つまり、始まりや終わりを規定する境界がない、もしくは境界の内にも外にも偏在し、現れることも消えることもなくただ存在する何か、ということである。始まりと終わりがある世界において、何かがふと、境界の内側にありながら外側を垣間見せる時、その何かは初めて特別なものとなりうる。特別を特別たらしめるのは、その向こうに“永遠”を見せるからであり、有限性の中に立ち現れる普遍性こそが特別の源になるのである。
そして、えいえんのスイカを夢想する。赤く瑞々しいそれにかぶりつき喉を潤す瞬間を。それは甘く涼しげで、そしてなんだか懐かしい感じがした。
特に行く先は決めない。いつもの事だ。気分によってはただコンビニをはしごするだけだったり、昔通った中学校の前を歩いてみたり、普段利用しない駅に行っては構内をぶらついてみたりする。そうした偶発的な場所が気分を高揚させた。
だがどうしたことだろう。今日に限って中々楽しい気分になれないでいた。雨がいけないのではない。また、ちょっと壊れかけた傘がいけないのでもない。むしろそういったイレギュラーな出来事は、よりいっそう状況を楽しくさせるはずなのだ。ただ何となく今日は心の中に蓄積したモヤモヤがいつまでも残って離れない。
別に何か理由があって気分が晴れないのではない。財布を落としただとか、家が火事になったなんていう分かりやすい出来事があるならまだしも、おかげさまで苦厄災難とはまったくもって無縁で生きている。人間関係に問題など抱えていないし、体も心もすこぶる健康。もちろん借金もない。当然世界情勢を憂いているなんてこともなければ、日本の行く末を案ずるなどということも断じてない。ただ漠然とした居心地の悪さが、厳然としてそこにあるのだった。
そんな折、24時間営業のスーパーの前を通りかかった。別に取り立てて買い物があるわけではなかったが、特に行くあてがあるわけではないのでふらりと立ち寄ってみる。時間はPM9:30を過ぎたぐらいだったと思う。入ってみて驚くのは人の多さだ。こんな時間にたくさん人がいるはずがないと思うが、そうではない。むしろこの時間帯は狙い目なのだ。なにがって、食品売り場では今頃がちょうど商品の値引きが始まるのだ。パン売り場では全品100円均一になっていて、我先に高いパンを手に入れようと人だかりができている。
華やかな青果売り場の前を通る。やけに大きなメロンの玉が、こんな夜だというのにうずたかく積まれている。バナナやオレンジといったありふれたものだけではない。世界中から取り寄せたと思しき原色の果物があちらこちらに飾られ、買い物客の耳目を引く。
しかしそうした華やかさはむしろ居心地の悪さを増殖させ、そぐわない感覚をよりいっそう強めてしまうのだった。
もう出ようか。そう思い始めたとき、ふとそれに目が留まった。賞味期限間近の青果が、値引きされパック詰めにされて、ワゴンの上に集めて置かれている。少し黒ずんだバナナだとか、いかにも売れなさそうな赤ピーマンの束。その横に、見たことのない、ピンポン玉位の大きさのものが一個、袋詰めにされて置いてあった。
マンゴスチン
袋にはそう書かれていた。聞いたことはある。袋にはアメリカ産と書いてあるが、それは多分違う。おそらくレモンか何かを詰める袋を流用しただけで、本当はアジアの国のどこかから来ているはずだ。遥々遠くの国から輸入されておきながら、売れずに安価で適当に放り出されている果物。しかしそれが妙に気を引いた。50円だ。それ一個だけをレジに持って行き、会計を済ませると、意気揚々と帰路についた。モヤモヤした気分はいつの間にか消え、なんだか妙に楽しかった。
家に帰ってきて早速考える。これはどうやって食べるのか。ネットで調べてみると、やはりこれはタイ産だった。それまではミカンコミバエという害虫がいるため日本への輸入は長年規制されていたそうだが、蒸熱処理による殺虫試験が有効であることが分かり解禁になったという。
まあ、とりあえずそんな豆知識はどうでもよく、なにはともあれ包丁を入れてみた。不思議な形状をしたその実をしばらくシゲシゲと眺めつつ、一粒口に放り込む。甘くもあり、すっぱくもあるその果実は、ねっとりと舌に絡みついて、すぐに消えた。今まで食べたことのない、それゆえ記憶に残りにくい感じのものだった。あっという間に全部食べ終わり、しばらくすると直ぐにどんな味だったのか忘れてしまった。
忘れてしまった。さっきまで抱えていた漠然とした違和感と同じように。確固として現実であったものも、結局忘れてしまえばもうどうでもいいことになってしまう。まあ、売れ残った果実にはふさわしいことなのもしれないな、なんてことをちょっと妄想して、なんだか一人納得してほくそ笑むのだった。
-ゆびしゃぶりこぞうのおはなし-
「コンラート!」ママは言いました。
「ちょっと出かけてくるけど、お留守番してなさいね。帰ってくるまでちゃんといい子にしてるのよ。いいわね、コンラートよく聞きなさい。親指をしゃぶってはいけませんよ。言いつけ守らないと仕立て屋さんがすっ飛んできてはさみで指をちょん切っちゃうんだから。」
ママが出かけると、おっと、早速指しゃぶり。
バン!その時ドアが開いたかと思うと、すごい勢いで仕立て屋が、指しゃぶり小僧のところにやって来た。痛い!鋭い大きなはさみでちょっきんちょっきん!親指すぱっと切っちゃった。うわーん。コンラートは泣き叫ぶ。
ママが家に戻ってみると、コンラートはしょんぼりと、両手の親指失って、一人ぽつんと立っていた。
これはハインリッヒ・ホフマン(Heinrich Hoffmann)の絵本「もじゃもじゃペーター」(Der Struwwelpeter)の中にある一編、“指しゃぶり小僧のお話”だ。全部で十編からなるこの絵本は、精神科医であるホフマンが、3歳になる息子のクリスマスプレゼントとして自分で書いたものだという。翌年、友人の勧めで出版するとこれがたちまち評判になり、まもなくヨーロッパじゅうの言語に訳されるまでになる。日本ではあまり知られていないが、向こうでは結構絵本として古典なのだろう。
この本を知ったのは本当に偶然だった。天気の良いある日、たまたま立ち寄った上野公園を意味も無く歩いていると、とある看板が目に止まる。国立国会図書館でやっているという“もじゃもじゃペーターとドイツの子供の本”という展示会だった。気になったので、何気に立ち寄ってみたところ、これが個人的に大ヒットだ。言いつけを守らないでひどい目にあう子供達の話を集めたこの絵本は、他にもマッチで遊んでいたら火が全身に燃え移って灰になる女の子、“とても悲しい火遊びのお話”だとか、スープを飲むのを嫌がってやせ細って死ぬ男の子、“スープ・カスパーのお話”なんていうのもある。一見すると残酷で不条理なお話も、ホフマンの味のある絵とあいまって、なんともいえない魅力を醸し出している。
そもそもこの本のタイトルである「もじゃもじゃペーター」とは、一年もの間爪も切らない、髪も伸ばし放題で放置する不潔な子供ペーターのことを描いたものなのだが、その汚らしさ、だらしなさがこれでもかというほど誇張され描かれている。こんな風にならないためにも、ちゃんと身だしなみには気をつけましょうねということなのだろうが、しかしこのペーター、言葉では説明できない、何かそれ以上のものを感じる。この過剰なグロテスクさが持つ説得力はどんな言葉よりも胸に迫るのだ。これはいったい何なのか?
-しつけとは-
人はなぜ働くのか?
なぜ盗んではいけないのか?
なぜ人を殺してはいけないのか?
これらの根源的な問いは、根源的であるがゆえに返答することができない。1+1=2が当たり前であるからこそ、もしくは1=1(自己同一性)を疑うことの無い大前提として受け入れているからこそ、科学的な考察は可能になる。それと同じように、盗まないという前提があってこそ経済活動は成り立つし、殺さないという前提があってこそ見知らぬ者とも同じ社会の中にいられるのだ。ありていに言えば、そのルールなくしては社会そのものが成り立たないから、ということだ。しかし裏を返せば、そのルールは人が本能だとか生得的に持っているものではなく、あくまで人により恣意的に作り出されたものだとも言える。
もちろん、“人を殺さないのは神との約束であるから”だとか、“みんなに迷惑をかけてはいけないから”といった倫理的道徳的理由は用意される。しかし一度、この根源的問いに疑問をもつ者が現れれば、言葉による説得は不可能になる。みんなでそうしようねと言ったところで、「いいや自分は従わない。どうして従わなくちゃいけないのか分からないから。」と言われればもうどうすることもできない。それが反社会的であるならば、後は強制的に社会から隔離するしか手立てがなくなるのだ。だからそうならないためにも、しつけ、ひいては教育というものは存在する。そしてしつけとは、理由に還元することができないものを身に付けさせるということなのだ。以前、「どうして人を殺してはいけないのか」と問うた子供に対し、誰もまともに答えられる大人がいなかったとか言って嘆く人がいたけど、そんなのはお門違いだ。その問いには答えることができない、それが正解だ。
それゆえ、しつけとは言葉を超えたもの、非言語的なものによってなされなければならない。結局人を動機付けるものとは、そういうレベルの話であり、言葉では説明できないからこそ強固なのだ。そう、話は思いっきりずれたけど、要するに「もじゃもじゃペーター」の魅力とは、そういう非言語的なところから訪れるナニカだ。この物語の残酷で非現実的な設定は、しかしどんな教育書よりも子供たちに浸透し、本当の意味で教育的だ。
そうだ、だからもし今社会に対して“根源的な疑問”を持っているのであるならば、今からでも遅くない、「もじゃもじゃペーター」を読むといい!親指を切られる少年や、灰になる少女の話とかを読んでいると、なんかとりあえず、ちゃんと生きていこうとかなと思えてくるから。理屈じゃなく。
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どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし
★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。