システム内存在の不可能性の認識、及び全体性の恣意的生成の可能性について
この世で最も好きな映画、『FIGHT CLUB』のワンシーンにこんなのがある。
自分の頭に銃を突きつけて今にも発砲しそうな主人公に対し、ブラッドピット演じるタイラー・ダーデンが言うセリフ。
"Where are you going with this, IKEA boy?"
(それでどうなる、イケアボーイ?)
イケアというのは全世界でフランチャイズ展開しているスウェーデンの人気家具メーカーのことで、オープン時には多くの人が押し寄せるほどの有名ブランドだ。今軽く調べてみても、どこかの国のオープニングセレモニーで大群が押し寄せ転倒し、死傷者が出たなんて話もある。つまり例えるなら、ハンバーガーならマクドナルド、コーヒーならスターバックッス、玩具ならトイザラス、そして洒落た家具ならイケアという訳だ。

主人公は冒頭で、このイケアの家具を半分脅迫的に買い求める人物として描写される。イケアのカタログをめくりながら、どんなダイニングセットを持っていれば自分がちゃんとした人間になれるのか、みたいなことに腐心していたりする。つまりここで言うイケアボーイとは、消費行為に自らの実存を重ね合わせる主人公のことを揶揄するためのセリフなのだ。トイザラスキッズとはワケが違う。
イケアというのは象徴みたいなもので、実際この映画全体からはコマーシャリズムに対する批判めいたものが漂っている。社会から疎外されていると感じる群集は、消費活動により自らをごまかし慰める。広告をみては要りもしないものを買いあさり、いつまでたっても満足することはない。
しかしだ。この社会の成員である限りそれを批判することは出来ない。社会の恩恵を受けるものが自ら依拠する社会システムを批判したところで、結局のところ自己矛盾でしかないからだ。自分が乗っている船を自分で壊しても、溺れて死ぬのは自分自身でしかない。
だが少なくとも、自分がどんな船に乗っているかについて自覚的であることはできる。無自覚に依存するのではなく、分かってて利用する。その限りにおいて、社会が与える恩恵を享受することは楽しいことだ。なにか珍しいものを見つけては喜んで買ってくる姿は正に自分そのものじゃないか。そうだ、IKEA boyとは実は自分のことだ、自分こそがIKEA boyなのだ。
さて、そのイケアなのだが、なんとこのたび日本進出1号店が4月24日に千葉県船橋市で開店したというではないか。しまった、出遅れてしまった!自分で自分のことをIKEA boyと名乗っておきながら、実はイケアに行ったことがないなんてシャレにならない。早速行って実際にイケアを体験することにした。
★∞◎∞☆∞◎∞★∞◎∞☆∞◎∞★∞◎∞☆∞◎★∞◎
JR武蔵野線、南船橋駅に降り立つとそこにはすでに人だかりができていた。東京ディズニーランドがある舞浜駅まではあと数駅先なのに何でこんなに人がいるんだと不思議に思ったけど、何のことはない、このほとんどがイケア行きの人々だった。

驚いた。入場制限をやるほどの人だかりだった。入口からはさらに100mほど伸びる行列ができている。正直めまいがした。いったいここはどこのアトラクションだ。家具屋じゃなかったのか?なぜこんなに人がいるのか皆目見当が付かない。まあ、この数十分後に実際に店内に入ってみて、何となくこの人ごみの理由を知ることになるのだが。
やっとの思いで入店して、まず思ったこと。広い。とにかく広大だ。そしてそこには、考えうるありとあらゆる種類の家具やら日常雑貨やらが、ダイニングルーム、キッチン、ベッドルームなどを模したスペースにディスプレイされている。品物の一つ一つには番号が書いてあり、それを入口に置いてある紙に控えて、後ほど倉庫から引っ張り出してきて購入するというスタイルをとっている。この倉庫の大きいこと大きいこと。あれは一見の価値がある。中にはレストランなどもあり、ホントに全体が一種のテーマパークのようだった。
軽く2時間ぐらいいただろうか。疲れたのでちょっと休もうとレストランに入ってみる。スウェーデン料理の店らしく、とりあえずミートボールと海老のサンドイッチを頼んでみた。

軽く一息つき、スウェーデンミートボールを頬張りながら考えた。大きいということ、広大であるということは、ただそれだけで人を圧倒するんだなと。あの家具が山積みになっている巨大な倉庫棚を見ているだけで何となくハイになった。きっとあの亜空間が一種のブラックホールの役割をはたし、沢山の人々を吸い込んでいるに違いないのだ。だからこんなに人がいるんだ。
そんなことを思いながら、また一つ、ミートボールを口の中に放り込んだ。

自分の頭に銃を突きつけて今にも発砲しそうな主人公に対し、ブラッドピット演じるタイラー・ダーデンが言うセリフ。
"Where are you going with this, IKEA boy?"
(それでどうなる、イケアボーイ?)
イケアというのは全世界でフランチャイズ展開しているスウェーデンの人気家具メーカーのことで、オープン時には多くの人が押し寄せるほどの有名ブランドだ。今軽く調べてみても、どこかの国のオープニングセレモニーで大群が押し寄せ転倒し、死傷者が出たなんて話もある。つまり例えるなら、ハンバーガーならマクドナルド、コーヒーならスターバックッス、玩具ならトイザラス、そして洒落た家具ならイケアという訳だ。
主人公は冒頭で、このイケアの家具を半分脅迫的に買い求める人物として描写される。イケアのカタログをめくりながら、どんなダイニングセットを持っていれば自分がちゃんとした人間になれるのか、みたいなことに腐心していたりする。つまりここで言うイケアボーイとは、消費行為に自らの実存を重ね合わせる主人公のことを揶揄するためのセリフなのだ。トイザラスキッズとはワケが違う。
イケアというのは象徴みたいなもので、実際この映画全体からはコマーシャリズムに対する批判めいたものが漂っている。社会から疎外されていると感じる群集は、消費活動により自らをごまかし慰める。広告をみては要りもしないものを買いあさり、いつまでたっても満足することはない。
しかしだ。この社会の成員である限りそれを批判することは出来ない。社会の恩恵を受けるものが自ら依拠する社会システムを批判したところで、結局のところ自己矛盾でしかないからだ。自分が乗っている船を自分で壊しても、溺れて死ぬのは自分自身でしかない。
だが少なくとも、自分がどんな船に乗っているかについて自覚的であることはできる。無自覚に依存するのではなく、分かってて利用する。その限りにおいて、社会が与える恩恵を享受することは楽しいことだ。なにか珍しいものを見つけては喜んで買ってくる姿は正に自分そのものじゃないか。そうだ、IKEA boyとは実は自分のことだ、自分こそがIKEA boyなのだ。
さて、そのイケアなのだが、なんとこのたび日本進出1号店が4月24日に千葉県船橋市で開店したというではないか。しまった、出遅れてしまった!自分で自分のことをIKEA boyと名乗っておきながら、実はイケアに行ったことがないなんてシャレにならない。早速行って実際にイケアを体験することにした。
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JR武蔵野線、南船橋駅に降り立つとそこにはすでに人だかりができていた。東京ディズニーランドがある舞浜駅まではあと数駅先なのに何でこんなに人がいるんだと不思議に思ったけど、何のことはない、このほとんどがイケア行きの人々だった。
驚いた。入場制限をやるほどの人だかりだった。入口からはさらに100mほど伸びる行列ができている。正直めまいがした。いったいここはどこのアトラクションだ。家具屋じゃなかったのか?なぜこんなに人がいるのか皆目見当が付かない。まあ、この数十分後に実際に店内に入ってみて、何となくこの人ごみの理由を知ることになるのだが。
やっとの思いで入店して、まず思ったこと。広い。とにかく広大だ。そしてそこには、考えうるありとあらゆる種類の家具やら日常雑貨やらが、ダイニングルーム、キッチン、ベッドルームなどを模したスペースにディスプレイされている。品物の一つ一つには番号が書いてあり、それを入口に置いてある紙に控えて、後ほど倉庫から引っ張り出してきて購入するというスタイルをとっている。この倉庫の大きいこと大きいこと。あれは一見の価値がある。中にはレストランなどもあり、ホントに全体が一種のテーマパークのようだった。
軽く2時間ぐらいいただろうか。疲れたのでちょっと休もうとレストランに入ってみる。スウェーデン料理の店らしく、とりあえずミートボールと海老のサンドイッチを頼んでみた。
軽く一息つき、スウェーデンミートボールを頬張りながら考えた。大きいということ、広大であるということは、ただそれだけで人を圧倒するんだなと。あの家具が山積みになっている巨大な倉庫棚を見ているだけで何となくハイになった。きっとあの亜空間が一種のブラックホールの役割をはたし、沢山の人々を吸い込んでいるに違いないのだ。だからこんなに人がいるんだ。
そんなことを思いながら、また一つ、ミートボールを口の中に放り込んだ。
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人は説明の付かないもの、偶発的事象、条理を逸した状況に出会ったとき、それに何らかの意味を見出そうと悪戦苦闘する。例えば、酒タバコなどの不摂生を繰り返す人が長生きする傍ら、規則正しい生活を送るものが病に倒れたりする。交通ルールを守らない人間が無事でいる一方で、ちゃんと守っている人間が不意に交通事故に巻き込まれる。まじめに生きてきた家族が突然天変地異により離散したりする。このような、“よりによってなぜ自分が”という返答不能な問いに対し、意味を与えるものとしてしばし神や宗教が持ち出される。現世で辛い目に合うのは、神が人間を試しているからだとか、前世で悪い行いをしたからだとか。これを神義論的問題という。このように不幸を馴致するための道具として、人は神や宗教を利用してきた。人生に意味を求めようとするのもそのためだ。
さてここからが本題だ。今、目の前に椰子の実が一つ。

…椰子の実。
間違いない。これは椰子の実だ。知らぬ間に部屋に流れ着いた椰子の実一つ。シュールだ。なぜよりによって椰子の実がこんなところに…。
まあ、理由は簡単。自分で買ってきたからだ。一言で言うと衝動買いというやつである。さいたま広しと言えど衝動買いで椰子の実を買って来るヤツなどそうはいまい。しかしよりによってなぜ椰子の実なのか。我ながら訳が分からない。自分のしてしまったことに対する不条理さを前に、“なぜ”なのかを問わずにはいられない。理由を神や前世に求めてみたが、一向に埒が明かない。
そう、分からないものにあえて意味を求めるのはやめよう。ニーチェは、神を持ち出すことにより目の前の現実を無批判に受け入れる人間を弱者と呼んで蔑んだ。今考えるべきはこの椰子の実をどうするかということだけだ。何で椰子の実一つで神義論の話とか持ち出すんだ、アホか。以上壮大なる言い訳終了。
さて、椰子の実だが、確か果実内部にたまった水は飲用になると聞いたことがある。何かのテレビで、椰子の実ジュースはスポーツドリンクの味がすると言っていたような気もするし。早速カチ割ってみることにした。

普通はナタで割るらしいが、そんなもの家にあるはずもなく、代わりにノコギリで挑戦してみる。悪戦苦闘すること5分、何とか穴だけは空けることが出来た。

椰子の実ジュースを器に取り出して、早速試飲してみる。なるほど、確かにスポーツドリンクの味がする。ほんのり甘みがあるようで甘すぎず、労働後の喉の渇きを癒してくれる。
残りのジュースを冷蔵庫にしまった後、今度はこの椰子の実を真っ二つに割ることにする。噂によると内部にはココナッツミルクなるものがあると聞く。それを手に入れなければこのミッションは終わらない。
…悪戦苦闘すること30分。なんという硬さだ!無人島に漂流した人間の辛さを垣間見てしまった。“いったい自分は何をやってるんだ”という問いを必死に振り払いつつ、修行僧のごとく必死に苦行に従事していると、ついにそれは姿を現した。

これが中から抽出したナニカ。

ちょっと不気味だ。これがココナッツミルクなのだろうか?何か違うような気もする。そもそもこれって食べられるかどうかすら怪しいではないか…。
…見なかったことにしよう。すばやくラップをして冷蔵庫の奥深くにしまい込むと、椰子の実の残骸をゴミ箱に叩き込み、すべてを強引に終わらせるのだった。
こんな夢を見た。南国のとある島で、一人、ヤシの木によじ登り必死になってその実に手を伸ばしている自分。しかしそれはいつまでも手の届かないところにあって、決して取ることができないでいた。その様は、しかし本人の必死さとは裏腹に、どことなく滑稽で、馬鹿馬鹿しくもあった。でもきっと人なんて概してそういうものなんだろうなと何となく思った。
さてここからが本題だ。今、目の前に椰子の実が一つ。
…椰子の実。
間違いない。これは椰子の実だ。知らぬ間に部屋に流れ着いた椰子の実一つ。シュールだ。なぜよりによって椰子の実がこんなところに…。
まあ、理由は簡単。自分で買ってきたからだ。一言で言うと衝動買いというやつである。さいたま広しと言えど衝動買いで椰子の実を買って来るヤツなどそうはいまい。しかしよりによってなぜ椰子の実なのか。我ながら訳が分からない。自分のしてしまったことに対する不条理さを前に、“なぜ”なのかを問わずにはいられない。理由を神や前世に求めてみたが、一向に埒が明かない。
そう、分からないものにあえて意味を求めるのはやめよう。ニーチェは、神を持ち出すことにより目の前の現実を無批判に受け入れる人間を弱者と呼んで蔑んだ。今考えるべきはこの椰子の実をどうするかということだけだ。何で椰子の実一つで神義論の話とか持ち出すんだ、アホか。以上壮大なる言い訳終了。
さて、椰子の実だが、確か果実内部にたまった水は飲用になると聞いたことがある。何かのテレビで、椰子の実ジュースはスポーツドリンクの味がすると言っていたような気もするし。早速カチ割ってみることにした。
普通はナタで割るらしいが、そんなもの家にあるはずもなく、代わりにノコギリで挑戦してみる。悪戦苦闘すること5分、何とか穴だけは空けることが出来た。
椰子の実ジュースを器に取り出して、早速試飲してみる。なるほど、確かにスポーツドリンクの味がする。ほんのり甘みがあるようで甘すぎず、労働後の喉の渇きを癒してくれる。
残りのジュースを冷蔵庫にしまった後、今度はこの椰子の実を真っ二つに割ることにする。噂によると内部にはココナッツミルクなるものがあると聞く。それを手に入れなければこのミッションは終わらない。
…悪戦苦闘すること30分。なんという硬さだ!無人島に漂流した人間の辛さを垣間見てしまった。“いったい自分は何をやってるんだ”という問いを必死に振り払いつつ、修行僧のごとく必死に苦行に従事していると、ついにそれは姿を現した。
これが中から抽出したナニカ。
ちょっと不気味だ。これがココナッツミルクなのだろうか?何か違うような気もする。そもそもこれって食べられるかどうかすら怪しいではないか…。
…見なかったことにしよう。すばやくラップをして冷蔵庫の奥深くにしまい込むと、椰子の実の残骸をゴミ箱に叩き込み、すべてを強引に終わらせるのだった。
こんな夢を見た。南国のとある島で、一人、ヤシの木によじ登り必死になってその実に手を伸ばしている自分。しかしそれはいつまでも手の届かないところにあって、決して取ることができないでいた。その様は、しかし本人の必死さとは裏腹に、どことなく滑稽で、馬鹿馬鹿しくもあった。でもきっと人なんて概してそういうものなんだろうなと何となく思った。
人の関係性は信頼の上に成り立っている。関係が良好であるという信頼の元に、コミュニケーションは積み重なり、ひいては見知らぬもの、未知なものへと開かれていく。信頼がなければ人は“他者”に対するコミュニケーションへの動機を失い、自閉した存在へと堕する。ゆえに良好な関係性への期待は健全な社会にとって必要不可欠なものだ。これがなければ、人は過度に保守化したり、偏執的に永遠のものを求めて停滞してゆく。自分とは異なるものへの不寛容につながり、ひいては排斥主義へとつながっていく…。
などと大層なことを考えたのは、先日こんな出来事があったからだ。ふらりと立ち寄ったコンビニでこんなものを見つけたのだ。

チョコレート効果 カカオ99%
しかもこのチョコレートには、こんなことが書いてある。
挑発だ。これは明らかに消費者を挑発している!こんな文言を見せ付けられた日には、黙っている訳にはいかない。もう条件反射的に棚からふんだくって購入してしまった。いや、言い訳するわけではないが、なんやかんやいっても甘いものには目がないのだ。
…
……甘かった。いや、チョコレートがではなく考えがだ。苦い。本当に苦い。苦さにおいて一切の妥協がないくらいに苦い。あの広告に嘘偽りがないことを確認しつつ、手元に残った板チョコを前に頭を抱えてしまった。
さてこれをどう処理するのか。
ここで問題なのは、ただこれをゴミ箱に捨ててしまえば良い、という単純な事ではないところにある。一番重要なのは、チョコレートとの甘い信頼関係を損なってしまった、これに尽きる。こんなことでカカオ嫌いになってしまっては、これから先何かとてつもない不利益を被るに違いないのだ。それは非常にまずい、何とかしなくては。そこでこの関係を修復すべく、いろいろなレシピを考案して試してみた。

まるごとバナナチョコ。

柏餅チョコ。

チョコまんチョコ。
……アホだ。アホ過ぎる。我ながら訳がわからない。もっと抜本的な解決方法を考えなくては。そこで、画期的なレシピを求めてネット検索をしたところ、こんな記事を見つけた。
人が何かに対して不快感を抱くのは、各々がイメージとして持っている“こうあるべき”姿からその対象が逸脱しているときである。それを是正するには、その対象を修正するか、もしくはイメージの方を変えてやればよい。つまりここでいうショコラトールとチョコレートとは別物であることを証明し、チョコレートの復権を図ればいい。今この手にある板チョコはチョコレートではなくショコラトール。これでいいはず。
そこでこの考えを基に、早速ショコラトールなるものを作ってみた。手元にはちょうどシナモンがあったので香辛料はこれで大丈夫だろう。湯煎で板チョコを溶かし、牛乳を加え、シナモンを適度に振りかけて一応の完成を見た。

飲んでみた。もちろん、お世辞にも美味いとは言えない。例えるなら、牛乳で多少まろやかになった苦みほとばしる流動体的な何かだ。ちっとも例えになってないが、しかしそんなことはこの際関係ない。
こうしてチョコレートとの健全な関係を取り戻し、カカオへの揺ぎ無い、甘い信頼関係を取り戻すことができたので、とりあえずは胸をなでおろすのであった。
などと大層なことを考えたのは、先日こんな出来事があったからだ。ふらりと立ち寄ったコンビニでこんなものを見つけたのだ。
チョコレート効果 カカオ99%
しかもこのチョコレートには、こんなことが書いてある。
(注)非常に苦いチョコレートです。お口で少しずつ溶かしながら、又は甘い飲み物と一緒に召し上がることをお勧め致します
挑発だ。これは明らかに消費者を挑発している!こんな文言を見せ付けられた日には、黙っている訳にはいかない。もう条件反射的に棚からふんだくって購入してしまった。いや、言い訳するわけではないが、なんやかんやいっても甘いものには目がないのだ。
…
……甘かった。いや、チョコレートがではなく考えがだ。苦い。本当に苦い。苦さにおいて一切の妥協がないくらいに苦い。あの広告に嘘偽りがないことを確認しつつ、手元に残った板チョコを前に頭を抱えてしまった。
さてこれをどう処理するのか。
ここで問題なのは、ただこれをゴミ箱に捨ててしまえば良い、という単純な事ではないところにある。一番重要なのは、チョコレートとの甘い信頼関係を損なってしまった、これに尽きる。こんなことでカカオ嫌いになってしまっては、これから先何かとてつもない不利益を被るに違いないのだ。それは非常にまずい、何とかしなくては。そこでこの関係を修復すべく、いろいろなレシピを考案して試してみた。
まるごとバナナチョコ。
柏餅チョコ。
チョコまんチョコ。
……アホだ。アホ過ぎる。我ながら訳がわからない。もっと抜本的な解決方法を考えなくては。そこで、画期的なレシピを求めてネット検索をしたところ、こんな記事を見つけた。
チョコレートの語源・由来
チョコレートの語源は、メキシコインディオで「苦い水」という意味の「chocolatre(ショコラトール)」。ショコラトールは、メキシコ原住民の間で薬用飲料として飲まれていた香辛料を入れた飲み物で、固形ではなく甘くもなかった。
人が何かに対して不快感を抱くのは、各々がイメージとして持っている“こうあるべき”姿からその対象が逸脱しているときである。それを是正するには、その対象を修正するか、もしくはイメージの方を変えてやればよい。つまりここでいうショコラトールとチョコレートとは別物であることを証明し、チョコレートの復権を図ればいい。今この手にある板チョコはチョコレートではなくショコラトール。これでいいはず。
そこでこの考えを基に、早速ショコラトールなるものを作ってみた。手元にはちょうどシナモンがあったので香辛料はこれで大丈夫だろう。湯煎で板チョコを溶かし、牛乳を加え、シナモンを適度に振りかけて一応の完成を見た。
飲んでみた。もちろん、お世辞にも美味いとは言えない。例えるなら、牛乳で多少まろやかになった苦みほとばしる流動体的な何かだ。ちっとも例えになってないが、しかしそんなことはこの際関係ない。
こうしてチョコレートとの健全な関係を取り戻し、カカオへの揺ぎ無い、甘い信頼関係を取り戻すことができたので、とりあえずは胸をなでおろすのであった。
“ヒトとはこういうものである”という予期のもとに書いた、ちょっと切ない三つの話。

例証1 二児の母
ある一家に子供が生まれた。しかし初めての子供だったため、勝手が分からない。母親はまじめな人柄だったのだろう。立派な親になろうとあれこれと手を尽くした。子供の気持ちを理解しよう、この子の気持ちになって考えよう、間違ったことをしたらちゃんと諭そう、等。そんな彼女の思いとは関係なく、子供は泣き、子供は笑い、そして子供は成長した。
二人目を授かった。
育児にある程度慣れたのと、そして何より疲れてしまったため、二人目は結構いいかげんに扱った。そんな彼女の思いとは関係なく、子供は泣き、子供は笑い、そして子供は成長した…。
15年後の現在、彼女は次男と仲が良い。

例証2 善意の募金活動
地域ボランティアの一環として、募金活動をすることになった。その中の一人Aは善意に満ち溢れた男だった。
熱心に活動に勤しむ。通りでは人一倍声を張り上げ、募金してくれた人には感情を込めて礼を言った。一生懸命にやった。がんばって恵まれない人を助けよう、と彼は純朴に考えていた。
集めた金額が一番少なかったのが彼だったことを、本人は知らない。

例証3 プロフェッショナル保育士
成り行きで保育所に勤めることになった男がいた。男の保育士はまだ珍しく、勤務している保育園でも仕事は概ね力仕事である。雑用が忙しく、子供たちとゆっくり話をする時間もあまりない。それにとりわけ、彼にこれといって明確な教育方針があるわけでもなかった。
ただ寄って来る子供たちを抱きかかえ、持ち上げ、振り回し、後は淡々と意味不明の子供の戯言を受け流すだけだった。
せんせーのにがおえ、という課題で描かれた絵の多くは、彼の絵だった。
例証1 二児の母
ある一家に子供が生まれた。しかし初めての子供だったため、勝手が分からない。母親はまじめな人柄だったのだろう。立派な親になろうとあれこれと手を尽くした。子供の気持ちを理解しよう、この子の気持ちになって考えよう、間違ったことをしたらちゃんと諭そう、等。そんな彼女の思いとは関係なく、子供は泣き、子供は笑い、そして子供は成長した。
二人目を授かった。
育児にある程度慣れたのと、そして何より疲れてしまったため、二人目は結構いいかげんに扱った。そんな彼女の思いとは関係なく、子供は泣き、子供は笑い、そして子供は成長した…。
15年後の現在、彼女は次男と仲が良い。
例証2 善意の募金活動
地域ボランティアの一環として、募金活動をすることになった。その中の一人Aは善意に満ち溢れた男だった。
熱心に活動に勤しむ。通りでは人一倍声を張り上げ、募金してくれた人には感情を込めて礼を言った。一生懸命にやった。がんばって恵まれない人を助けよう、と彼は純朴に考えていた。
集めた金額が一番少なかったのが彼だったことを、本人は知らない。
例証3 プロフェッショナル保育士
成り行きで保育所に勤めることになった男がいた。男の保育士はまだ珍しく、勤務している保育園でも仕事は概ね力仕事である。雑用が忙しく、子供たちとゆっくり話をする時間もあまりない。それにとりわけ、彼にこれといって明確な教育方針があるわけでもなかった。
ただ寄って来る子供たちを抱きかかえ、持ち上げ、振り回し、後は淡々と意味不明の子供の戯言を受け流すだけだった。
せんせーのにがおえ、という課題で描かれた絵の多くは、彼の絵だった。
まずこれだけは言っておきたい。一番最初にシイタケに肉を詰めた人間は天才であると。なぜか。普通シイタケを調理しようとする場合、せいぜい考えられるのは、煮込むだとか、細かく切り刻んで他の食材と一緒に炒めたりだとか、それぐらいのものじゃないだろうか。一般的に好き嫌いが激しく、クセがあって正直それほど人気があるとは言えないシイタケ。“体に良いから”という、嘘だか本当だか分からない漠然とした理由によって(いや、理由はあるのかもしれないが個人的には知らない)食されることの方が多いに違いない、そんなマイナーな食材シイタケ。それを美味しく、且つ美しく調理するには一体どうすればいいのか。そんな無謀な問いに解決策を与えたのが、他でもない、シイタケに肉を詰める行為だ。
かつてゲーデルは“不完全性定理”により次のことを証明した。
この世界の内部では、理論的に物事を進めて得た結果でさえ、必ずしもそれが最良であるとは限らない。むしろ期待はずれのことも多く、確実に成果へと導くには至らないことしきりだ。
革新的なものは世界の外側から訪れてくる。論理ではなく、むしろ直感的な何かだ。シイタケの調理法を論理的に考えていても、思いつくのはせいぜい過去のレシピの陳腐な組み合わせぐらいのものだろう。シイタケに肉を詰める。こんな革新的な発想をどうにかして恣意的に得ることはできないものか。
という発想のもと、それに類する事象、出来事を書き連ねていくことを目的としてこのブログは立ち上がったというわけだ。分かっていると思うが、半分冗談で半分大真面目である。
かつてゲーデルは“不完全性定理”により次のことを証明した。
「ある理論体系は、自らに矛盾がないことをその理論体系内部においては証明することができない。」
この世界の内部では、理論的に物事を進めて得た結果でさえ、必ずしもそれが最良であるとは限らない。むしろ期待はずれのことも多く、確実に成果へと導くには至らないことしきりだ。
革新的なものは世界の外側から訪れてくる。論理ではなく、むしろ直感的な何かだ。シイタケの調理法を論理的に考えていても、思いつくのはせいぜい過去のレシピの陳腐な組み合わせぐらいのものだろう。シイタケに肉を詰める。こんな革新的な発想をどうにかして恣意的に得ることはできないものか。
という発想のもと、それに類する事象、出来事を書き連ねていくことを目的としてこのブログは立ち上がったというわけだ。分かっていると思うが、半分冗談で半分大真面目である。
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プロフィール
HN:
tes626
性別:
男性
自己紹介:
★座右の銘
どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし
★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。
どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし
★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。
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