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システム内存在の不可能性の認識、及び全体性の恣意的生成の可能性について
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この世で最も好きな映画、『FIGHT CLUB』のワンシーンにこんなのがある。
自分の頭に銃を突きつけて今にも発砲しそうな主人公に対し、ブラッドピット演じるタイラー・ダーデンが言うセリフ。

"Where are you going with this, IKEA boy?"
(それでどうなる、イケアボーイ?)


イケアというのは全世界でフランチャイズ展開しているスウェーデンの人気家具メーカーのことで、オープン時には多くの人が押し寄せるほどの有名ブランドだ。今軽く調べてみても、どこかの国のオープニングセレモニーで大群が押し寄せ転倒し、死傷者が出たなんて話もある。つまり例えるなら、ハンバーガーならマクドナルド、コーヒーならスターバックッス、玩具ならトイザラス、そして洒落た家具ならイケアという訳だ。



主人公は冒頭で、このイケアの家具を半分脅迫的に買い求める人物として描写される。イケアのカタログをめくりながら、どんなダイニングセットを持っていれば自分がちゃんとした人間になれるのか、みたいなことに腐心していたりする。つまりここで言うイケアボーイとは、消費行為に自らの実存を重ね合わせる主人公のことを揶揄するためのセリフなのだ。トイザラスキッズとはワケが違う。

イケアというのは象徴みたいなもので、実際この映画全体からはコマーシャリズムに対する批判めいたものが漂っている。社会から疎外されていると感じる群集は、消費活動により自らをごまかし慰める。広告をみては要りもしないものを買いあさり、いつまでたっても満足することはない。
しかしだ。この社会の成員である限りそれを批判することは出来ない。社会の恩恵を受けるものが自ら依拠する社会システムを批判したところで、結局のところ自己矛盾でしかないからだ。自分が乗っている船を自分で壊しても、溺れて死ぬのは自分自身でしかない。

だが少なくとも、自分がどんな船に乗っているかについて自覚的であることはできる。無自覚に依存するのではなく、分かってて利用する。その限りにおいて、社会が与える恩恵を享受することは楽しいことだ。なにか珍しいものを見つけては喜んで買ってくる姿は正に自分そのものじゃないか。そうだ、IKEA boyとは実は自分のことだ、自分こそがIKEA boyなのだ。


さて、そのイケアなのだが、なんとこのたび日本進出1号店が4月24日に千葉県船橋市で開店したというではないか。しまった、出遅れてしまった!自分で自分のことをIKEA boyと名乗っておきながら、実はイケアに行ったことがないなんてシャレにならない。早速行って実際にイケアを体験することにした。

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JR武蔵野線、南船橋駅に降り立つとそこにはすでに人だかりができていた。東京ディズニーランドがある舞浜駅まではあと数駅先なのに何でこんなに人がいるんだと不思議に思ったけど、何のことはない、このほとんどがイケア行きの人々だった。



驚いた。入場制限をやるほどの人だかりだった。入口からはさらに100mほど伸びる行列ができている。正直めまいがした。いったいここはどこのアトラクションだ。家具屋じゃなかったのか?なぜこんなに人がいるのか皆目見当が付かない。まあ、この数十分後に実際に店内に入ってみて、何となくこの人ごみの理由を知ることになるのだが。

やっとの思いで入店して、まず思ったこと。広い。とにかく広大だ。そしてそこには、考えうるありとあらゆる種類の家具やら日常雑貨やらが、ダイニングルーム、キッチン、ベッドルームなどを模したスペースにディスプレイされている。品物の一つ一つには番号が書いてあり、それを入口に置いてある紙に控えて、後ほど倉庫から引っ張り出してきて購入するというスタイルをとっている。この倉庫の大きいこと大きいこと。あれは一見の価値がある。中にはレストランなどもあり、ホントに全体が一種のテーマパークのようだった。

軽く2時間ぐらいいただろうか。疲れたのでちょっと休もうとレストランに入ってみる。スウェーデン料理の店らしく、とりあえずミートボールと海老のサンドイッチを頼んでみた。



軽く一息つき、スウェーデンミートボールを頬張りながら考えた。大きいということ、広大であるということは、ただそれだけで人を圧倒するんだなと。あの家具が山積みになっている巨大な倉庫棚を見ているだけで何となくハイになった。きっとあの亜空間が一種のブラックホールの役割をはたし、沢山の人々を吸い込んでいるに違いないのだ。だからこんなに人がいるんだ。
そんなことを思いながら、また一つ、ミートボールを口の中に放り込んだ。

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人は説明の付かないもの、偶発的事象、条理を逸した状況に出会ったとき、それに何らかの意味を見出そうと悪戦苦闘する。例えば、酒タバコなどの不摂生を繰り返す人が長生きする傍ら、規則正しい生活を送るものが病に倒れたりする。交通ルールを守らない人間が無事でいる一方で、ちゃんと守っている人間が不意に交通事故に巻き込まれる。まじめに生きてきた家族が突然天変地異により離散したりする。このような、“よりによってなぜ自分が”という返答不能な問いに対し、意味を与えるものとしてしばし神や宗教が持ち出される。現世で辛い目に合うのは、神が人間を試しているからだとか、前世で悪い行いをしたからだとか。これを神義論的問題という。このように不幸を馴致するための道具として、人は神や宗教を利用してきた。人生に意味を求めようとするのもそのためだ。

さてここからが本題だ。今、目の前に椰子の実が一つ。



…椰子の実。

間違いない。これは椰子の実だ。知らぬ間に部屋に流れ着いた椰子の実一つ。シュールだ。なぜよりによって椰子の実がこんなところに…。

まあ、理由は簡単。自分で買ってきたからだ。一言で言うと衝動買いというやつである。さいたま広しと言えど衝動買いで椰子の実を買って来るヤツなどそうはいまい。しかしよりによってなぜ椰子の実なのか。我ながら訳が分からない。自分のしてしまったことに対する不条理さを前に、“なぜ”なのかを問わずにはいられない。理由を神や前世に求めてみたが、一向に埒が明かない。
そう、分からないものにあえて意味を求めるのはやめよう。ニーチェは、神を持ち出すことにより目の前の現実を無批判に受け入れる人間を弱者と呼んで蔑んだ。今考えるべきはこの椰子の実をどうするかということだけだ。何で椰子の実一つで神義論の話とか持ち出すんだ、アホか。以上壮大なる言い訳終了。


さて、椰子の実だが、確か果実内部にたまった水は飲用になると聞いたことがある。何かのテレビで、椰子の実ジュースはスポーツドリンクの味がすると言っていたような気もするし。早速カチ割ってみることにした。



普通はナタで割るらしいが、そんなもの家にあるはずもなく、代わりにノコギリで挑戦してみる。悪戦苦闘すること5分、何とか穴だけは空けることが出来た。



椰子の実ジュースを器に取り出して、早速試飲してみる。なるほど、確かにスポーツドリンクの味がする。ほんのり甘みがあるようで甘すぎず、労働後の喉の渇きを癒してくれる。

残りのジュースを冷蔵庫にしまった後、今度はこの椰子の実を真っ二つに割ることにする。噂によると内部にはココナッツミルクなるものがあると聞く。それを手に入れなければこのミッションは終わらない。


…悪戦苦闘すること30分。なんという硬さだ!無人島に漂流した人間の辛さを垣間見てしまった。“いったい自分は何をやってるんだ”という問いを必死に振り払いつつ、修行僧のごとく必死に苦行に従事していると、ついにそれは姿を現した。



これが中から抽出したナニカ。



ちょっと不気味だ。これがココナッツミルクなのだろうか?何か違うような気もする。そもそもこれって食べられるかどうかすら怪しいではないか…。

…見なかったことにしよう。すばやくラップをして冷蔵庫の奥深くにしまい込むと、椰子の実の残骸をゴミ箱に叩き込み、すべてを強引に終わらせるのだった。


こんな夢を見た。南国のとある島で、一人、ヤシの木によじ登り必死になってその実に手を伸ばしている自分。しかしそれはいつまでも手の届かないところにあって、決して取ることができないでいた。その様は、しかし本人の必死さとは裏腹に、どことなく滑稽で、馬鹿馬鹿しくもあった。でもきっと人なんて概してそういうものなんだろうなと何となく思った。
人の関係性は信頼の上に成り立っている。関係が良好であるという信頼の元に、コミュニケーションは積み重なり、ひいては見知らぬもの、未知なものへと開かれていく。信頼がなければ人は“他者”に対するコミュニケーションへの動機を失い、自閉した存在へと堕する。ゆえに良好な関係性への期待は健全な社会にとって必要不可欠なものだ。これがなければ、人は過度に保守化したり、偏執的に永遠のものを求めて停滞してゆく。自分とは異なるものへの不寛容につながり、ひいては排斥主義へとつながっていく…。

などと大層なことを考えたのは、先日こんな出来事があったからだ。ふらりと立ち寄ったコンビニでこんなものを見つけたのだ。


チョコレート効果 カカオ99%

しかもこのチョコレートには、こんなことが書いてある。

(注)非常に苦いチョコレートです。お口で少しずつ溶かしながら、又は甘い飲み物と一緒に召し上がることをお勧め致します


挑発だ。これは明らかに消費者を挑発している!こんな文言を見せ付けられた日には、黙っている訳にはいかない。もう条件反射的に棚からふんだくって購入してしまった。いや、言い訳するわけではないが、なんやかんやいっても甘いものには目がないのだ。


……甘かった。いや、チョコレートがではなく考えがだ。苦い。本当に苦い。苦さにおいて一切の妥協がないくらいに苦い。あの広告に嘘偽りがないことを確認しつつ、手元に残った板チョコを前に頭を抱えてしまった。

さてこれをどう処理するのか。

ここで問題なのは、ただこれをゴミ箱に捨ててしまえば良い、という単純な事ではないところにある。一番重要なのは、チョコレートとの甘い信頼関係を損なってしまった、これに尽きる。こんなことでカカオ嫌いになってしまっては、これから先何かとてつもない不利益を被るに違いないのだ。それは非常にまずい、何とかしなくては。そこでこの関係を修復すべく、いろいろなレシピを考案して試してみた。


まるごとバナナチョコ。


柏餅チョコ。


チョコまんチョコ。

……アホだ。アホ過ぎる。我ながら訳がわからない。もっと抜本的な解決方法を考えなくては。そこで、画期的なレシピを求めてネット検索をしたところ、こんな記事を見つけた。

チョコレートの語源・由来
チョコレートの語源は、メキシコインディオで「苦い水」という意味の「chocolatre(ショコラトール)」。ショコラトールは、メキシコ原住民の間で薬用飲料として飲まれていた香辛料を入れた飲み物で、固形ではなく甘くもなかった。


人が何かに対して不快感を抱くのは、各々がイメージとして持っている“こうあるべき”姿からその対象が逸脱しているときである。それを是正するには、その対象を修正するか、もしくはイメージの方を変えてやればよい。つまりここでいうショコラトールとチョコレートとは別物であることを証明し、チョコレートの復権を図ればいい。今この手にある板チョコはチョコレートではなくショコラトール。これでいいはず。

そこでこの考えを基に、早速ショコラトールなるものを作ってみた。手元にはちょうどシナモンがあったので香辛料はこれで大丈夫だろう。湯煎で板チョコを溶かし、牛乳を加え、シナモンを適度に振りかけて一応の完成を見た。



飲んでみた。もちろん、お世辞にも美味いとは言えない。例えるなら、牛乳で多少まろやかになった苦みほとばしる流動体的な何かだ。ちっとも例えになってないが、しかしそんなことはこの際関係ない。
こうしてチョコレートとの健全な関係を取り戻し、カカオへの揺ぎ無い、甘い信頼関係を取り戻すことができたので、とりあえずは胸をなでおろすのであった。

かつて梶井基次郎は自らの短編でこんなことを書いている。

 

“桜の樹の下には屍体が埋まっている!”



この短編の趣旨はこうだ。桜などの美しいものが盛りを迎えるとき、その周囲には一種神秘的な雰囲気を撒き散らすものだが、その裏にはきっと何かグロテスクなものが潜んでいて、その美しさを醸し出させているに違いない。そう思うことでやっと自分は心の安寧を得るのだ、と。
自らが持つ劣等感ゆえに、美しいものをそのまま美しいと受け入れることが出来ない。何か抵抗があるので、そこに死体という薄気味悪いものを対峙させてみる。そこで初めて美しいものを享受可能なものにすることが出来るのだよ、という屈折した心情のお話だ。

空想ではあるが、ちょっと神秘的でもあり、どぎつくもあるこの話は何か人を惹きつけるものがある。実際梶井は二回もこう書いている。

“これは信じていいことだ!” と。


当然信じることにした。


そこで、実際に穴を掘って確かめてみようと、桜がいっぱい咲いていて、死体が埋まっていそうな場所に行くことにした。まずは穴を掘るためのスコップが必要かなと思い、最寄のディスカウントストアに寄って購入する。今からこのスコップを使って何をしようとしているかなど、店員はよもや知るまい。そんなことを考えて一人でほくそ笑みつつ、なんとなく目星をつけておいた、ちょっとした運動公園みたいなところに行ってみた。

案の定満開だった。桜が咲き誇りあたり一面が華やいで、本当に神秘的な雰囲気を醸し出している。死体が埋まっているとしたらここだ、間違いない。人も思ったほど多くなく、密かに穴を掘るにはもってこいの場所だった。

そこで、せっかく来たことだし、とりあえず本当に花見はしておこうと思って、さっきスコップと一緒に買っておいた梅酒を取り出す。花見には梅酒、これは定説である。そんなわけで、梅酒なぞをちびちびやりつつ、この広大な公園を散策してみる。

名前さえ知らない綺麗な白い花。餌をばら撒きすぎて鳩にまみれる男。梅酒の匂いにつられて寄ってくるリス。これらのなんでもない一つ一つの風景が、桜の神秘的力を借りて何か特別なものに変容し、人を魅了する。桜の魔力とはよく言ったもので、すっかり魅せられていた。

ちょっとしたほろ酔い気分で、危うく当初の計画を忘れるところではあったが、一本、いい感じの大きな桜の木を見つけたので、人に見つからないようこっそり掘り始める…が。

なんだか急速にどうでもよくなってきた。別に死体などなくても、すでに桜の神秘性は存分に堪能したことだし、もういいではないか。そう、確かに桜の木の下には何かがある。それがわかっただけで十分だ。
掘った穴には梅酒に入っていた梅の実の種を植え、そっと埋めて帰ることにした。きっといつか、あの桜の木の下から場違いな梅が芽を出すに違いないなどと想像しつつ。そんな、ある麗らかな春の昼下がりのことだった。


帰る途中、菜の花畑を見た。それは遠目に黄色く光り輝き、妖しい雰囲気を醸し出している。
…あそこにも埋まっているに違いない。きっとあそこにも埋まっているに違いないと、密かに思いつつ、しばらくそこに釘付けになり、そしてまた帰路につくのだった。


ギシ、ガタ、ギシ、ガタ



耳を澄ますと、低いモーター音と少し老朽化した古めかしい機械の軋む音、そして時折隙間から流れ込んでくる風と、遠くで賑わう人々の声が聞こえてくる。
今、東武動物公園にある観覧車の狭い空間の中で、一人、なんとなく手持ち無沙汰で佇んでいる。別段快晴というわけでもなく、むしろどことなく曇っていて見晴らしも悪く、風が少し強めに吹いているだけだった。
なぜ自分は一人でこんなところにいるのか。

きっかけはこうだ。
ある日ネット上を目的もなくあちこち徘徊していた時、とあるホームページで一人で観覧車に乗る男の話しを見つけた。それにはこうあった。

 

“日常生活に追われる中、ふとしたきっかけで立ち寄った観覧車を見て、昔の楽しかったころの自分に戻れるんじゃないかと思い乗ってみた。しかし、下界に見える人々は、始めから自分なんか存在していないかのようにうごめいて、遠くのスピーカーから聞こえる音の割れた音楽とあいまって、さらに孤独感と疎外感を強めてしまった…。”


この話を読んだとき、この人には悪いんだけど、思わず苦笑してしまった。たかだか十数分周りから隔離されただけで人間の孤独だって?いや、もちろん非日常的な場所で本来数人で乗るべきものに一人で乗っているという特殊状況があるにせよ、それはないだろう、簡単すぎやしないか、と。でも同時にちょっとうらやましいなとも思った。そんなに簡単に人の根源的孤独を感じられるもんなら、それはそれですごく貴重な体験なんじゃないかと。それなら自分も実際にやってみるしかないだろう…


ギシ、ガタ、ギシ、ガタ


またゴンドラが軋む。高さはもうほとんど頭頂部あたりにまで到達しそうだ。隣前のゴンドラに乗っていたのは父親と娘の二人連れで、後ろは定番のカップル。おそらくこの観覧車に一人で乗っているのは、ここにいる物好きただ一人だろう。確かに眼下では多くの人々がざわめき、笑い、各々が自分とは何の関連もなく行きかってはいるのだが…

正直な感想を言うと、何も感じなかった。まったく何も感じなかった。寂しいという感情すらわかない。この日はすでに2回乗っている。1回目の時は、若干高さに対する怖さみたいなものもあったが、それもすぐに慣れてしまった。これはどういうことだ。あのホームページの男と自分と何が違うのか…
大層な人間の孤独なんてものも、結局は一時的な人間の感傷でしかなく、それですらいつかは慣れてしまう。飽きてしまった、つまりそういうことなんだな。つまらない。本当につまらない。


ギシ、ガタ、ギシ、ガタ


そんなことを考えつつ、すでに四分の三を過ぎ去った観覧車の狭苦しいゴンドラの中で、虚空を見つめて微動だにせず、地上に降り立つのをただじっと待っているのだった。

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どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし

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システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。
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