埼玉県さいたま市大宮区にある広大な大宮公園の片隅に、この公園の大きさとは比較にならないほどちっぽけな動物園がある。その名も“大宮公園小動物園”。その名に違わぬ小ささで、じっくり見て回ったとしてもほんの数十分もあれば一回りできてしまうような、そんな動物園だ。もちろん入場無料である。だからきっとその運営費は、鳥小屋の一番奥に飼われている烏骨鶏の卵を売ってまかなわれているに違いないなどと密かに勘ぐってみたりもするが、もちろんそんなのは余計なお世話だ。そして当然といえば当然だが、華のある動物など期待すべくもなく、いるのはサルやらタヌキやらクマやらで、せいぜいピンクフラミンゴが間近で見られるのが良い所といえば良い所だ。
だがしかし、こんな小さな動物園の、またさらに片隅に位置する檻の中に、実はこの動物園にはそぐわない珍しい動物を見ることができる。ハイエナだ。正式名称をブチハイエナといい、アフリカのサハラ砂漠以南のサバンナに生息するという肉食獣だ。象の骨すら噛み砕くという強靭な顎を持つこの動物は、驚くべきことに今現在日本に全部で六匹しかおらず、その内の二匹が今目の前の檻の中をせわしなく行ったり来たりしている。こんな場末の動物園にそんな珍しい動物を置いておいていいのだろうか。そんな疑問も出ないではないが、とりあえず無料で入れるのをいいことに、暇を見てはこのハイエナ目当てにしばしここを訪れて、じっと眺めてみたりする。
ハイエナのメスの外性器は、外見上オスのそれとほとんど区別がつかないことから、長らく両性具有であると信じられてきた。性がはっきりしないという迷信から、中世までのキリスト教では、神を受け入れたかはっきりしないあいまいな人間の象徴として、ハイエナが用いられたという。面白い話だ。あいまいで、かつ死肉を食らうというダーティーなイメージを持つハイエナが人間の象徴である。これは人間にとって迷惑な話なのか、はたまたハイエナにとって迷惑な話なのか。しかしそんなことはともかくとして、実際に見るハイエナはそのイメージとは裏腹に愛くるしく、そしてなにより美しい。人間を襲うこともあるというこのハイエナをしばらく眺めているうちに、なんだか不思議な気分になってくる。
人間の視点から見る檻の中のハイエナ。そして檻の中から外を眺めるハイエナの視線。それらは決して交錯することなく、独立したそれぞれの世界をそれぞれのルールで生きている。そんな何物をも共有しない、別世界の獰猛な動物に愛着を感じるのは考えてみれば実に奇妙なことだ。
人が人に親近感を抱くのはある意味理解可能なことである。環境や情報、言葉や感情などを共有していくうちに滲み出てくる他者に対する“親しさ”は極めて想像可能なことであるし、人はそれを媒体として関係性を構築していく。しかしそういったものを一切期待できないものに対しても同じように関係性を期待してしまうのはなぜなのか。
逆説的ではあるが、相手のことが一切分からないからこそそれが可能なのではないか。圧倒的な断絶を前にすれば、それに対してできることはただ想像のみだ。ハイエナが少し首を傾げれば、そこに何らかの感情的振る舞いを見出して可愛らしく感じる。横になって目を閉じれば、そこに穏やかさを見出して微笑ましく思う。相手が猛獣だということも忘れて。もちろんハイエナの方は、そんなこちらの思惑など知る由もなく、もし檻から放たれたなら何の躊躇いもなく飛びついてきて、骨まで食らい尽くすだろうに。こちらの想像上の愛情と、ハイエナの実際の獰猛さが、“こちら”と“あちら”を隔てる鉄格子を境に均衡している。そんな不思議さを垣間見るのだった。
休日のせいか、こんな小さな動物園にもそれなりの訪問者がいる。大半が親子連れで、やはりサルの檻の前では子供達が大騒ぎだ。そんなちょっとした喧騒の中にいて、ふと嫌なことに気付く。
「人とハイエナ」と「人と人」。いったい何が違うというのか。相手が襲ってこようがこまいが、関係性においてやっていることは結局同じことだ。どの道、人と人の間には見えない鉄格子が存在していて、微妙に均衡を保っている。こちらの想像上の愛情やら憎悪やらを相手に投影しながら…
でも、まあ、それはそれとして、子供達やサルのやかましい叫び声を聞いているうちに、結局そんなことはどうでもいいことのようにも思えてくる。今ここに感じている好ましい感情さえあれば、とりあえず何の支障もなく人と人との関係は回ってゆく。それは本来ありえないくらい奇跡的なことなのに誰もその事実に気付かないままに。
そんなことを思いつつ、帰りにもう一度ハイエナを見ていこうと、そそくさと動物園の片隅にある檻へと向うのだった。
彩り美しく、かつ非常に瑞々しいフルーツ皿を目の前にして軽い違和感を覚えるのは、自分が場違いな場所にいるのではないかと何となく感じるからだ。もちろんここはフルーツパーラーでもなければ果物屋でもない。まごうかたなき“かっぱ寿司”のカウンターである。正直に言おう。毎回毎回、回転寿司に来る度に、あのベルトコンベアーの上に堂々と鎮座する一群のデザート類が気になって気になってしょうがないのだ。今日も今日とて“かっぱ寿司”に来てみれば、目の前をフルーツの群れが流れてゆく。寿司屋なのに。しかもあの皿、取るのに人一倍勇気が要るではないか。当然だ。ここは寿司屋であって甘味処ではないからだ。
にも関わらず、なんだろう。この場違いな物に対する心惹かれる感じは。店の戦略に引っかかっているだけなのか、はたまた個人的な性(さが)なのか。それを見極めるべく、今日は、今現在ウニやイクラを差し置いて“かっぱ寿司”で一番高いメニューとなっている、「チョコパフェ」を食べてみようと思うのだ。しかし冷静に考えてみて欲しい。寿司屋でパフェだ。とても正気の沙汰とは思えない。これをメニューに加えた人間は間違いなくシラフではないだろう。パンがなければケーキを食べるが、スシがあればパフェなど食べない。だからこんな場違いで酔狂な行為を行うには、やはりそれなりの理由や根拠(屁理屈とも言う)が必要だと思う。そこで今回、回転寿司でパフェを食べる理由を考察してみた。
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人間の体にはホメオスタシスという機能がある。体を取り巻く環境が変わっても、それにあわせて体温調節や、血糖値調整などをして、身体にとって正常な状態を常に一定に保とうとする働きがそれだ。暑くなれば汗をかいて体温を下げ、運動すれば心臓の鼓動が早くなって体内の酸素循環を活性化させたりするのがそれにあたる。
そして面白いことに、この“一定に保とうとする”機能は肉体的な状態にとどまらず、精神的なものにまで及ぶことがある。心理学用語で言うところの「認知的不協和」がそれだ。
こんなことはないだろうか。
ある映画を観て、それをすごく面白かったと思う。しかし他の人にその映画の感想を聞いてみると、みんながみんなそれを駄作であると批評する。その意見を聞いているうちに自分もだんだんその映画がつまらない作品であるように思えてきて、ついには自分も否定的な意見を言うようになってしまう。自分の中のその映画に対する評価と、他人の評価が対立するという不協和に対し、意識的あるいは無意識的に自己弁明を加えて自らの認知を変え、不協和を解消しようとする心理だ。それを認知的不協和と言う。
肉体的であれ精神的であれ、常に環境と一定の状態を維持しようとする機能が人には本能的に備わっている。人が社会的であるというのはその意味で無意識の精神的恒常機能のためであるともいえる。だがともすると、人は場の雰囲気に同調するあまり、“後から考えるとなぜあんなことをしてしまったのか”というような失態を犯すことがある。祭りの場での乱痴気騒ぎしかり、教室内でのいじめしかり、国家レベルでの民族大虐殺しかりだ。もちろん、それが良いことなのか悪いことなのか一概には言えない。だが少なくとも、自分がなぜそういう振る舞いをするのかについての客観的視点だけは備えているべきだと思う。
ただ、それには練習が必要だ。いかんせん相手は本能のなせる技だ。ボケッとしていたら知らず知らずのうちに場に適した振る舞いをするようになってしまう。かといってそれに抗い、あまりに社会的に突飛な行動をとれば、有無を言わさずポリスへゴー(警察行き)だ。要するに必要なのは、その場その場で最適とされる立ち居振る舞いを正確に認識、客体化して、それとは微妙に距離を取ってずれていくという一種の奇行に他ならない。メリットとしては、不本意な同調圧力に流されなくなるというのがあるが、デメリットとして、何かに包摂されているという安心感(無責任感)を失うかもしれない。
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そうだ、これは本能的最適化への抗いであり、社会で精神的自主独立を維持するための練習なのだ。そうと分かれば話は早い。さっそくチョコパフェを食べることにした。ただこのチョコパフェ、回っているのはプレートだけで、頼むときは目の前に設置されているインターフォンをわざわざ押して注文しなければならない。正直勇気が要る。周りの客の目が気になる。額に嫌な汗が浮かぶ。そんなこんなで逡巡すること約五分。ついに意を決してボタンを押した…。
注文を済ませ、しばらく待っていると、店員がパフェを席まで運んでくる。ついに来た!通過儀礼としての苦難辛苦も、過ぎてしまえば後に残るのは爽やかな達成感のみだ。もちろんパフェが寿司とまったく合わないだとか、緑茶との相性が最悪だとか、そんなことはどうでもいい。ここで重要なのは、パフェが美味しいかどうかということではなく、回転寿司にてチョコパフェに手を出すという英雄的行為にある。今はむしろ周囲に誇示するかのように、誇らしげにチョコパフェにスプーンを突き刺し、クリームをすくって口に運ぶのだった。
それは必要以上に甘ったるく、そしてどこか野暮ったい味がした。
-part1-
科学とは何か。それは世界にある諸事物、森羅万象を一般法則に基づいて規定することだ。換言すると、“これ”は“これ”であることを立証するシステムであり、“自己同一性”を担保する共通規格である。そして一度何かを“A”と規定することにより、それはA以外の何ものでもなくなる。例えばそれを“B”でもあり同時に“C”でもあるなどと主張することを、現代科学では「異常」と呼ぶ。そして規定し得ないものの存在を主張することを「非科学的」と呼ぶ。
それらがネガティブなイメージを持って語られるのは、社会や人間関係を正常に回すという前提に抵触するからであるが、それに触れない限りにおいては「異常なもの」「非科学的なもの」も社会との共存を許される。いやむしろ潤滑油として積極的に活用されることすらある。例えば「奇跡」という概念だ。
固定された“A”という存在は、規定されているが故に、決して“B”になることができない。AとBの間の絶対的溝の存在は自己同一性を確立した現代人にとっては半ば自明のことであり、現代科学を前提にして回る社会は、必然的にこの溝を引き受けて生きていくことになる。陳腐だが切実でもある“現代社会の孤独”というフレーズには意味があり、それを認識することを「絶望」と呼ぶ。A=Bにはなり得ない。人と人は分かり合えない。もしそれが可能であるならば、それこそ奇跡であると。
決して交じり合うことのない存在同士が繋がる。「奇跡」とはそういう意味だ。そして社会はそれを必要とし、不条理と知りつつもそんな希望にすがる。
-part2-
ある日電車に乗っていると、とても気持ちの悪い物を見た。骨や神経が見えやすいようなかたちで、あちこち切り刻まれている人体の標本。そんなものがでかでかと載っているつり革広告だった。
-人体の不思議展-
「からだのなか、見えないから、見たくなる。」
そう題された展示会のお知らせに興味を引かれ、じっくりと説明を読んでみると驚愕の事実を知らされる。“本展で展示されているすべての人体標本は、生前からの意志に基づく献体によって提供されたものです”とある。なんと、全部ホンモノの人体!それが所狭しと並んでいるというではないか。そんなすごい物があるのなら、これはぜひとも見に行かなくては…。
ということでさっそく次の休みの日、取るものもとりあえず展示会のあるさいたまスーパーアリーナまでやって来た。なんとなく即興で作った感じの展示場で、しかも1,500円という高めの入場料の割には人の入りもまあまあで、それなりの賑わいを見せている。まったく世の中物好きや野次馬には事欠かない。
と自分のことは棚に上げつつ中に入ってみると、この展示会の主旨についてかかれた大きなプレートが目に入る。曰く『人体標本を通じて「人間とは」「命とは」を来場者に理解、実感していただく』こと、そしてそれを可能にした新技術たる『プラストミック標本』について。
人体保存において一番問題になる腐敗と収縮を防ぐため、まず遺体を真空状態に置き、そこに合成樹脂を浸透させることにより半永久的に保存することが可能になるというプラストミック技術。そのようにして作り出された人体標本が会場の至る所に展示されていた。
人の手がガラスケースの中に無造作に置かれている。その横にはスライスされた脳。剥き出しにされた肺、心臓、内臓。毛穴までくっきり残っている人の顔は輪切りにされ、歯の神経まで確認できる。癌に侵された臓器やら、アルツハイマー患者の脳までもがあり、成長過程の胎児にはうっすらと毛が生えていて、思った以上に人の形を成している。説明には生前からの意志に基づく献体によって提供されたとあるが、アルツハイマー患者や胎児に対してはどうやって合意を得たのだろうか。決して美談でないことは想像に難くない。
そんなことを考えているうちに、最初の好奇心は徐々に嫌悪へと変わり、目の前の人体は感情を持った人間というより、即物的な肉片の塊へと変容していく。
出口付近に一体、実際に触れることのできる標本があった。それを心置きなく突っつきまわしながら、“ああ、人の筋肉はビーフジャーキーのようだよ”なんてことを漠然と考えた。
-part3-
愛すべき人間。憎むこともあれ、常に愛してやまない他者。その対象たる肉体は、人と人を分かつ最後の壁だ。しかしその最後の壁を強引にこじ開けたところで、そこにあるのはただのグロテスクな肉片だけということを知っているだろうか。一つになりたいと欲してやまない相手の体は、時に醜悪な対象でありうることを感じたことはあるだろうか。そんな絶望的な精神を救うのは結局のところ“奇跡”だけなのだと、何となく思った。
ダリの絵を見た。例の上野でやってる回顧展だ。馬鹿みたいに混んでいて、入り口にいるスタッフが、チケットを買ってから中に入るまで45分待ちだと大声で叫んでいる。ずらっと並んだ人々の列の最後尾に向かいながら、美術展というのはこんなにも混むものなのかとちょっと辟易する。そもそも美術館なんてところにやって来るのは初めてだし、こちらもご多分に漏れず、ミーハー的野次馬的好奇心でやって来た大多数のうちの一人なのだが。何か美術展に行ってきたって言えばかっこいいかなぐらいの、ちょっとした虚栄心であることはまあ間違いない。
でもダリに興味があるのも事実ではある。それほど美術に関心があるわけでも、造詣が深いわけでもないけれど、シュールレアリスムに関してはちょっと心引かれるものがある。正直モネとかルノアールみたいな、いかにも芸術然とした印象派の美術展が開かれようと、おそらく行くことなんかないだろう。もちろん好みの問題だけど。印象派の絵は、観るものを弛緩させ、絵の世界と自分との関係を和らげるような、そんな“美しさそのもの”を表現したタイプのものだが、逆にダリを代表とするシュールレアリスムの絵は、鑑賞者をはねつけ、孤独にし、不安を喚起する、どこか偏執的な感じのするものだ。それが妙に魅力的だったりする。
そもそもシュールレアリスムとは何か。一応来る前に下調べはしておいた。
-シュールレアリスム-
理性によって規定された表層的世界に隣接する、規定し得ないものを表記していく芸術的運動。“非現実的”ということではなくむしろ過剰なまでに現実的という意味において、“超現実”と換言される。日常的な町並みや景色の中に見え隠れする「過剰さ」「強度」に晒されることにより訪れる精神的自由の喚起、開放を目的とする。思想的にフロイトの精神分析に強く影響を受け、無意識や集団の意識、夢、偶然等を重視して表現される。代表的な画家としては、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギー、ポール・デルヴォーなどがいる。
こんなところか。人がダリに求めるのは、写実的日常性の中に垣間見える不気味な“何か”だ。見えないものが見たい、そういう単純な衝動がダリの人気の本質ではないのかと個人的には思っていたりする。世界は見えているものがすべてではないということを確認するために、人々はわざわざこんなところまでやって来て行列をつくる。少なくとも自分はそうだ。
なんてことを思っている内に列ははけ、20分そこらで美術館内に入ることができた。館内入り口からは細長い通路になっていて、通路の壁にはダリについて、ダリ美術館についての説明が書いてある。しばらく歩くと絵画の展示場に出る。案の定一つ一つの画の前には黒山の人だかりが出来ていて、遠目にしか見ることができない。仕方がないので辛抱強く人が流れていくのをじっと待つ。少しずつ絵画の前へと近づいていくと、まず目に入るのが初期のダリの自画像だったり、彼の妹の肖像画だったりする。まあ、こんな物かな、なんてことを思いつつ観ていると、次の三つ並んだ作品の前で目が留まる。
・早春の日々 The First Days of Spring
・平均的官僚 The Average Bureaucrat
・手(良心の呵責) Hand (Remorse of Conscience)
不思議な絵だった。神秘的でいて、なおかつ細部まで緻密に描写され、どことなく現実味を漂わせている。ぎりぎりまで絵に近づいて凝視してみる。そして引く。そしてまた近づく。そんな事を数回繰り返す。絵を体感する、そんな感じで。
凝縮と弛緩。身体的な反復運動は徐々に対象との感覚的距離を縮め、周りの風景から自分を切り出すことに成功する。周囲の群集からいつの間にか切り離され、絵と自分だけが取り残される。神秘的で不気味な絵と共に。そこでは様々な悪夢やら白昼夢やらが、なぜかとても懐かしいような奇妙な感覚と共に訪れ、それに満たされている間中、なんだか妙に幸せだった。
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全ての絵を見終えて、出口付近にある売店にたどり着くころには、すっかり疲れ果て、目の奥がじんじんと痛んだ。すっかり喧騒へと立ち返り、今は周りの多くの人と共に売店のグッズを一つ一つ見て回る。特に気を引くものはなかったが、チュッパチャプスが売っていたのでそれを買った。チュッパチャプスのロゴはダリがデザインしたもの、というのを前にどこかテレビで見たような気もするが、舐めてみるとやっぱりそれはただのアメだった。
外に出てみるともうすでに薄暗く、冷ややかな外気だけがいつもよりはっきりと感じられた。
それがもうすでにどこにも売ってないと気付いたのは、9月に入って二、三週間ぐらいたったころだろうか。悪いことに、入手困難になって初めてそれが欲しことに気付く。まあ、そもそも気まぐれとはそういうものだ。普段は別段気にも掛けないものが、ある日突然思いつきで気になってしょうがなくなる。今回も正にそうだ。もう時間がないことは分かっている。この機会を逃せば、今年はもう絶対に手に入れることはできないだろう。無論、まがいものなら手に入るかもしれないが、それでは駄目だ。なんとなくそう思う。そんなワケであちこちのスーパーやら八百屋やらを物色する羽目になるのだが。
スイカが食べたいと久しぶりに思った。あればあるで特に気にもせずに食べるものだけど、取り立ててスイカが食べたいなんて思うことは正直無い。甘いものなら他にいくらでもあるし、喉が渇いたのなら渇きを癒す方法なんていくらでもある。しかし今回はそうじゃない。スイカだ。スイカじゃなくちゃ駄目だ。夏の風物詩だからどうとか、スイカに含まれるリコピンが健康に良いからだとか、そういうことではない。突然スイカが自分の中に降りてきて、気になってしょうがない。そんな感じだ。しかも温室栽培でぬくぬく育ったような一年中いつでも食べられるスイカではなく、今年の夏の強烈な日差しを浴びて採れたホンモノのスイカがどうしても食べたい。そんなわけの分からない衝動に駆られつつ、今日も今日とてあちこちの店を回ってみたりするのだが、これで何件目だろう、本当にどこにもない。そして気付いた。もう時期が過ぎてしまったのだと。
何かが貴重だと感じるのは、その時期が終わりに近づいてきてからというのはある意味興味深い。同じスイカでも、一年中手に入るものとしてのスイカと、今期最後であるスイカとではやはり何かが違う。今年限りという一回性と不可逆性が特別という概念を生み出す。特別という概念は、“始まり”と“終わり”が存在して始めて認識されるものだ。特別なもの、かけがえのないもの、その断片を今年のスイカの中に見たのだった。
そこで、始まりと終わりについて深く考えてみた。
深度1 始まり
何かが“存在”している、ということを証明するために必要なものが2つある。一つ目は、“ない”という状態と“ある”という状態を分かつ境界。二つ目は“ない”という領域(境界の外側)と、何かが“ある”という領域(境界の内側)を俯瞰する、二つの領域をまたぐ視点。この俯瞰する視点から境界内部の存在を指し示すことにより、初めて何かが存在すると証明することができる。境界の外部からの視点があって初めて“存在”は規定される。そしてこの境界を認識することを“始まり”と呼ぶ。
深度2 終わり
何かが終わるとは連続性の断絶を意味する。断絶するものとは、“ある”と“ない”を分かつ境界の方か、もしくはそれを見つめる視座のどちらかだ。前者が断絶するとは、規定された対象自体の消滅のことであり、後者の断絶とは、その存在を規定する意味づけそのものの消滅のことだ。
深度3 特別と永遠
特別という概念を、始まりと終わりのある世界の中の希少な何かであると規定するならば、永遠とはちょうどその反対にあたるものと言える。つまり、始まりや終わりを規定する境界がない、もしくは境界の内にも外にも偏在し、現れることも消えることもなくただ存在する何か、ということである。始まりと終わりがある世界において、何かがふと、境界の内側にありながら外側を垣間見せる時、その何かは初めて特別なものとなりうる。特別を特別たらしめるのは、その向こうに“永遠”を見せるからであり、有限性の中に立ち現れる普遍性こそが特別の源になるのである。
そして、えいえんのスイカを夢想する。赤く瑞々しいそれにかぶりつき喉を潤す瞬間を。それは甘く涼しげで、そしてなんだか懐かしい感じがした。
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どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし
★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。