彩り美しく、かつ非常に瑞々しいフルーツ皿を目の前にして軽い違和感を覚えるのは、自分が場違いな場所にいるのではないかと何となく感じるからだ。もちろんここはフルーツパーラーでもなければ果物屋でもない。まごうかたなき“かっぱ寿司”のカウンターである。正直に言おう。毎回毎回、回転寿司に来る度に、あのベルトコンベアーの上に堂々と鎮座する一群のデザート類が気になって気になってしょうがないのだ。今日も今日とて“かっぱ寿司”に来てみれば、目の前をフルーツの群れが流れてゆく。寿司屋なのに。しかもあの皿、取るのに人一倍勇気が要るではないか。当然だ。ここは寿司屋であって甘味処ではないからだ。
にも関わらず、なんだろう。この場違いな物に対する心惹かれる感じは。店の戦略に引っかかっているだけなのか、はたまた個人的な性(さが)なのか。それを見極めるべく、今日は、今現在ウニやイクラを差し置いて“かっぱ寿司”で一番高いメニューとなっている、「チョコパフェ」を食べてみようと思うのだ。しかし冷静に考えてみて欲しい。寿司屋でパフェだ。とても正気の沙汰とは思えない。これをメニューに加えた人間は間違いなくシラフではないだろう。パンがなければケーキを食べるが、スシがあればパフェなど食べない。だからこんな場違いで酔狂な行為を行うには、やはりそれなりの理由や根拠(屁理屈とも言う)が必要だと思う。そこで今回、回転寿司でパフェを食べる理由を考察してみた。
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人間の体にはホメオスタシスという機能がある。体を取り巻く環境が変わっても、それにあわせて体温調節や、血糖値調整などをして、身体にとって正常な状態を常に一定に保とうとする働きがそれだ。暑くなれば汗をかいて体温を下げ、運動すれば心臓の鼓動が早くなって体内の酸素循環を活性化させたりするのがそれにあたる。
そして面白いことに、この“一定に保とうとする”機能は肉体的な状態にとどまらず、精神的なものにまで及ぶことがある。心理学用語で言うところの「認知的不協和」がそれだ。
こんなことはないだろうか。
ある映画を観て、それをすごく面白かったと思う。しかし他の人にその映画の感想を聞いてみると、みんながみんなそれを駄作であると批評する。その意見を聞いているうちに自分もだんだんその映画がつまらない作品であるように思えてきて、ついには自分も否定的な意見を言うようになってしまう。自分の中のその映画に対する評価と、他人の評価が対立するという不協和に対し、意識的あるいは無意識的に自己弁明を加えて自らの認知を変え、不協和を解消しようとする心理だ。それを認知的不協和と言う。
肉体的であれ精神的であれ、常に環境と一定の状態を維持しようとする機能が人には本能的に備わっている。人が社会的であるというのはその意味で無意識の精神的恒常機能のためであるともいえる。だがともすると、人は場の雰囲気に同調するあまり、“後から考えるとなぜあんなことをしてしまったのか”というような失態を犯すことがある。祭りの場での乱痴気騒ぎしかり、教室内でのいじめしかり、国家レベルでの民族大虐殺しかりだ。もちろん、それが良いことなのか悪いことなのか一概には言えない。だが少なくとも、自分がなぜそういう振る舞いをするのかについての客観的視点だけは備えているべきだと思う。
ただ、それには練習が必要だ。いかんせん相手は本能のなせる技だ。ボケッとしていたら知らず知らずのうちに場に適した振る舞いをするようになってしまう。かといってそれに抗い、あまりに社会的に突飛な行動をとれば、有無を言わさずポリスへゴー(警察行き)だ。要するに必要なのは、その場その場で最適とされる立ち居振る舞いを正確に認識、客体化して、それとは微妙に距離を取ってずれていくという一種の奇行に他ならない。メリットとしては、不本意な同調圧力に流されなくなるというのがあるが、デメリットとして、何かに包摂されているという安心感(無責任感)を失うかもしれない。
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そうだ、これは本能的最適化への抗いであり、社会で精神的自主独立を維持するための練習なのだ。そうと分かれば話は早い。さっそくチョコパフェを食べることにした。ただこのチョコパフェ、回っているのはプレートだけで、頼むときは目の前に設置されているインターフォンをわざわざ押して注文しなければならない。正直勇気が要る。周りの客の目が気になる。額に嫌な汗が浮かぶ。そんなこんなで逡巡すること約五分。ついに意を決してボタンを押した…。
注文を済ませ、しばらく待っていると、店員がパフェを席まで運んでくる。ついに来た!通過儀礼としての苦難辛苦も、過ぎてしまえば後に残るのは爽やかな達成感のみだ。もちろんパフェが寿司とまったく合わないだとか、緑茶との相性が最悪だとか、そんなことはどうでもいい。ここで重要なのは、パフェが美味しいかどうかということではなく、回転寿司にてチョコパフェに手を出すという英雄的行為にある。今はむしろ周囲に誇示するかのように、誇らしげにチョコパフェにスプーンを突き刺し、クリームをすくって口に運ぶのだった。
それは必要以上に甘ったるく、そしてどこか野暮ったい味がした。
そのレストランに入ったのは一時を五分ほど過ぎた頃だったと思う。まだまだ昼時だ。店内には学生やら家族連れやらでごった返し、一様にざわめき立っている。本来タバコは吸わないのだが、喫煙席ならすぐ座れるということなので、そっちに座ることにする。まあ、正直どっちでもいい。むしろ周りにあまり人がいなければ好都合だ。案の定、連れて来られた席は、隣に一組のビジネスマン風の客が談笑しているのみで、人は比較的まばらだった。程なくするとその二人も席を立ち、両隣には誰もいなくなる。いい感じだ。
メニューを取り出す。ちらっと形ばかり目を通すと、すぐにウェイターを呼んで注文する。デカンタワインの赤とアンチョビのピザ。実のところ頼むものは店に入る前からすでに決めていた。計画通りだ。注文を済ませると、メニューを放り出して再び辺りを確認する。ウェイターは立ち去った。他の客は、誰もが自分らの話に夢中で周りを気にかけるものなど誰一人いない。
バッグに手を入れて中の物を確認する。家から持参したそれはちゃんと入っている。大丈夫だ。後は料理が運ばれてくるのを待つばかり。
それにしても、だ。カバンに手を突っ込みながら周りを気にする様は、明らかに不審行為だ。我ながら何とかならないものか。まあ、実際ちょっとビクついていたのは確かだ。この緊張感は、店の喧騒から自分をほんの少しだけ浮き上がらせる。
とその時、ウェイターがベビーカーを引いた親子連れを、隣の席に案内してきた。各々が席に着くとメニューを物色しながら、たわいのない話を始める。まずい。これではおおっぴらに“行動”することが出来ない。気になってちらちらと隣の席の様子見をしていると、ふとベビーカーの中の赤ん坊と目が合う。くすりとも笑わない。その子と5秒ほどにらめっこしてしまったが、こっちが根負けして目をそらしてしまった。家族の者は選ぶのに忙しくてこちらには気付いていない。まあ、とりあえずは大丈夫か。
料理が運ばれてきた。ワイングラスは程良く冷えていて、白い冷気に曇っている。しばらくそのグラスを眺めた後、そこにワインを注いでみる。通と呼ばれる人間はここでグラスでも振って香りなんかを楽しむものなんだろうけど、いかんせんこの安ワインにはそぐわない行為だ。一口くちに含んでグラスを置き、再び眺めながら考える。
馬鹿げた諧謔心。恒常性への抗い。人が羽目を外す理由は様々だ。だが羽目を外すという行為そのものは普遍であり、生きていくうえで必要不可欠なものである。しかし、それを認識している者は案外少ない。大抵無意識か偶発的に訪れるそれを期待して破滅的な振る舞いをしがちだ。そして失敗する。だがそれではダメだ。別に大層な非日常なんて訪れる必要はない。ほんのちょっとした違い。惰性からほんの一ミリずれさえすればいいのだ。いつもと違ったことを意識的に取り入れるだけで日常は簡単に楽になる。歩いたことのない道を歩いてみるのもいい。入ったことのない店を訪れてみたり、料理の味付けを変えてみたり。そして…
しばらくワイングラスを眺めていたが、意を決してカバンに手を伸ばす。家から持参した10gパックのハチミツを取り出すと、おもむろにワインに注いだ。ねっとりとした蜜はゆっくりとグラスの中へと落ちて行き、底の方へと沈殿していく。ストローで強引にかき回すと、そこには得体の知れない飲み物が出現した。以前より深みを増した美しいルビー色の液体。もしくは単なるゲテモノ。いや、そんなことはどっちでもいい。今はただ、この馬鹿げた創作物を純粋に楽しんでみるのだった。
2杯目を飲み終える頃、軽い酩酊感が訪れる。店内のざわめきから引き剥がされ、浮き足立った気分で辺りを見渡すと、再び先程の赤ん坊と目が合う。相変わらずくすりともしない。一心不乱にこちらを見つめる眼差しは、しかしさっきと違って何かを訴えているように感じられる。きっとこう言っているに違いない。
「やあ、この店で浮いているのはキミとボクの二人だけだね」
ああ、そうかもな。そんな妄想が頭をかすめ、ついおかしくて苦笑する。すると今度は赤ん坊の方が関心なさげに目をそらし、ベビーカーの中でじたばたと暴れだすのだった。
かつて梶井基次郎は自らの短編でこんなことを書いている。
“桜の樹の下には屍体が埋まっている!”
この短編の趣旨はこうだ。桜などの美しいものが盛りを迎えるとき、その周囲には一種神秘的な雰囲気を撒き散らすものだが、その裏にはきっと何かグロテスクなものが潜んでいて、その美しさを醸し出させているに違いない。そう思うことでやっと自分は心の安寧を得るのだ、と。
自らが持つ劣等感ゆえに、美しいものをそのまま美しいと受け入れることが出来ない。何か抵抗があるので、そこに死体という薄気味悪いものを対峙させてみる。そこで初めて美しいものを享受可能なものにすることが出来るのだよ、という屈折した心情のお話だ。
空想ではあるが、ちょっと神秘的でもあり、どぎつくもあるこの話は何か人を惹きつけるものがある。実際梶井は二回もこう書いている。
“これは信じていいことだ!” と。
当然信じることにした。
そこで、実際に穴を掘って確かめてみようと、桜がいっぱい咲いていて、死体が埋まっていそうな場所に行くことにした。まずは穴を掘るためのスコップが必要かなと思い、最寄のディスカウントストアに寄って購入する。今からこのスコップを使って何をしようとしているかなど、店員はよもや知るまい。そんなことを考えて一人でほくそ笑みつつ、なんとなく目星をつけておいた、ちょっとした運動公園みたいなところに行ってみた。
案の定満開だった。桜が咲き誇りあたり一面が華やいで、本当に神秘的な雰囲気を醸し出している。死体が埋まっているとしたらここだ、間違いない。人も思ったほど多くなく、密かに穴を掘るにはもってこいの場所だった。
そこで、せっかく来たことだし、とりあえず本当に花見はしておこうと思って、さっきスコップと一緒に買っておいた梅酒を取り出す。花見には梅酒、これは定説である。そんなわけで、梅酒なぞをちびちびやりつつ、この広大な公園を散策してみる。
名前さえ知らない綺麗な白い花。餌をばら撒きすぎて鳩にまみれる男。梅酒の匂いにつられて寄ってくるリス。これらのなんでもない一つ一つの風景が、桜の神秘的力を借りて何か特別なものに変容し、人を魅了する。桜の魔力とはよく言ったもので、すっかり魅せられていた。
ちょっとしたほろ酔い気分で、危うく当初の計画を忘れるところではあったが、一本、いい感じの大きな桜の木を見つけたので、人に見つからないようこっそり掘り始める…が。
なんだか急速にどうでもよくなってきた。別に死体などなくても、すでに桜の神秘性は存分に堪能したことだし、もういいではないか。そう、確かに桜の木の下には何かがある。それがわかっただけで十分だ。
掘った穴には梅酒に入っていた梅の実の種を植え、そっと埋めて帰ることにした。きっといつか、あの桜の木の下から場違いな梅が芽を出すに違いないなどと想像しつつ。そんな、ある麗らかな春の昼下がりのことだった。
帰る途中、菜の花畑を見た。それは遠目に黄色く光り輝き、妖しい雰囲気を醸し出している。
…あそこにも埋まっているに違いない。きっとあそこにも埋まっているに違いないと、密かに思いつつ、しばらくそこに釘付けになり、そしてまた帰路につくのだった。
ギシ、ガタ、ギシ、ガタ
耳を澄ますと、低いモーター音と少し老朽化した古めかしい機械の軋む音、そして時折隙間から流れ込んでくる風と、遠くで賑わう人々の声が聞こえてくる。
今、東武動物公園にある観覧車の狭い空間の中で、一人、なんとなく手持ち無沙汰で佇んでいる。別段快晴というわけでもなく、むしろどことなく曇っていて見晴らしも悪く、風が少し強めに吹いているだけだった。
なぜ自分は一人でこんなところにいるのか。
きっかけはこうだ。
ある日ネット上を目的もなくあちこち徘徊していた時、とあるホームページで一人で観覧車に乗る男の話しを見つけた。それにはこうあった。
“日常生活に追われる中、ふとしたきっかけで立ち寄った観覧車を見て、昔の楽しかったころの自分に戻れるんじゃないかと思い乗ってみた。しかし、下界に見える人々は、始めから自分なんか存在していないかのようにうごめいて、遠くのスピーカーから聞こえる音の割れた音楽とあいまって、さらに孤独感と疎外感を強めてしまった…。”
この話を読んだとき、この人には悪いんだけど、思わず苦笑してしまった。たかだか十数分周りから隔離されただけで人間の孤独だって?いや、もちろん非日常的な場所で本来数人で乗るべきものに一人で乗っているという特殊状況があるにせよ、それはないだろう、簡単すぎやしないか、と。でも同時にちょっとうらやましいなとも思った。そんなに簡単に人の根源的孤独を感じられるもんなら、それはそれですごく貴重な体験なんじゃないかと。それなら自分も実際にやってみるしかないだろう…
ギシ、ガタ、ギシ、ガタ
またゴンドラが軋む。高さはもうほとんど頭頂部あたりにまで到達しそうだ。隣前のゴンドラに乗っていたのは父親と娘の二人連れで、後ろは定番のカップル。おそらくこの観覧車に一人で乗っているのは、ここにいる物好きただ一人だろう。確かに眼下では多くの人々がざわめき、笑い、各々が自分とは何の関連もなく行きかってはいるのだが…
正直な感想を言うと、何も感じなかった。まったく何も感じなかった。寂しいという感情すらわかない。この日はすでに2回乗っている。1回目の時は、若干高さに対する怖さみたいなものもあったが、それもすぐに慣れてしまった。これはどういうことだ。あのホームページの男と自分と何が違うのか…
大層な人間の孤独なんてものも、結局は一時的な人間の感傷でしかなく、それですらいつかは慣れてしまう。飽きてしまった、つまりそういうことなんだな。つまらない。本当につまらない。
ギシ、ガタ、ギシ、ガタ
そんなことを考えつつ、すでに四分の三を過ぎ去った観覧車の狭苦しいゴンドラの中で、虚空を見つめて微動だにせず、地上に降り立つのをただじっと待っているのだった。
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どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし
★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。