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システム内存在の不可能性の認識、及び全体性の恣意的生成の可能性について
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アボカドを知っているだろうか?アボカドとはメキシコ原産の、クスノキ科の高木になる果実のことで、栄養価が高いことから別名「森のバター」とも呼ばれていたりする木の実だ。
最近では結構スーパーでも売られているし、寿司のネタにもなっているので、一度くらいは食べたことがある人も多いに違いない。

だがこのアボカド、好きな人は好きだが、嫌いな人も結構多かったりする。なんだか青臭くて駄目だというのが大方の意見だ。もっともである。
かくいう自分も、当初このアボカドを好きになれないでいた。理由は簡単、アボカドは以前スーパーの果物売り場に置いてあったからだ。いや、ひょっとすると今でもリンゴやオレンジの隣に置いてあるかもしれない。

avocado_2.jpg

見慣れない実が果物棚に置いてあったとして、さてどんな味だろうと楽しみにしながら買って帰り、いざ食べてみたところ、あの甘味のないねっとりとした青臭い味がしたらどうだろうか。

当然、なんだこれは、ということになる。

勘違いしてはいけないが、別にスーパーの店員が置き間違えたのではない。アボカドは木になるので野菜ではなくれっきとした果物だ。だが当然果物として、甘い果肉を期待しながら食べてみると、ちょっとしたしっぺ返しを食らうことになる。これが他でもない、多くの人がアボカドを嫌いになる理由だ。

~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~

人は“初めて見る物”、“初めて会う人”を前にした時、その対象に関して心の中で“きっとこういうものではないか?”といった予期をもって対峙するものだ。予想通りであればよし、予想を大きく外れれば、大抵は驚きや嫌悪といった感情を抱くことになる。
こういった予期は意識的になされることもあるが、大抵は無意識だ。そして無意識であるがゆえに、このような驚きや嫌悪感は、己に原因を帰せられることなく、あくまで悪いのは対象の方であると結論付けられる。

もちろん何かに対して嫌悪感を抱くのを否定しているのではない。問題なのは無意識的になされた予期が無意識であるがゆえに顧みられることがないということだ。

当然のことだが、世界は人の思い通りには回ってはいない。世界がそうであるのは端的にそうであるというだけのことで、その世界に対し価値を付随していくのはあくまで個々人の恣意性にすぎない。

ゆえに無意識に抱いてしまう物事に対しての前提や先入観の存在に気付けるかどうかということは極めて重要なことだ。その人の成熟度が知れるといっても過言ではない。
なぜなら何かを嫌いだと宣言することはあまりに簡単だからだ。気の赴くまま、感情の赴くままに無責任に喚き散らせばいい。ただそれだけのことだ。

だが少し待ってほしい。

何かに対してふと嫌悪感を抱いた時、ちょっと踏みとどまって、なぜ嫌いなのかを考えてみて欲しい。大抵はこの無意識になされる予期からの乖離が原因であることがほとんどだから。

~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~

アボカドは、実は果物というよりむしろ野菜なのではないか?果物という前提をかなぐり捨てて、野菜として食べてみてはどうか?

ちょっとしたきっかけで思い直し、サラダとしてアボカドをトマトやレタスと一緒にマヨネーズをかけて食べてみたところ、その美味しいこと美味しいこと!!普通の野菜にはない淡白な舌触りはサラダにとって非常にいい感じのアクセントになっている。これは実にいい感じだ。
そんなわけで最近ではすっかりハマって、安く売っていたりするとつい買いだめとかして食べるようになった。ちょっとした視点の変更で、物事は良くも悪くもなるんだなということを思い知らされる出来事だった。


~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~ ∵ ~~

先日たまたまネットを徘徊していたところ、とある掲示板でアボカドのレシピを紹介しているスレッドを見つけた。サラダに和えたりサンドイッチに挟んだりと、さまざまな食べ方を紹介していたのだが、その中に冗談半分こんな事を書いている人がいた。なんとアボカドに蜂蜜をかけて食べるというのである。アボカドに蜂蜜とは!何かデザートか何かと勘違いしているのだろうか?

気持ち悪い!
実に気持ち悪い!!
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先日、携帯に配信されてくるニュースを見ていると、こんな奇妙な事件が目に留まった。



埼玉県警行田署は、行田市須加の利根川右岸の土手で、散弾銃やライフルの弾など計633個が見つかったと発表した。何者かが捨てた可能性が高いとみて火薬類取締法違反(不適正処理)容疑で捜査している。

調べでは、土手を除草していた男性作業員(44)が弾を発見、同署に通報した。署員が付近を検索し、約15メートル四方にわたって、クレー射撃か狩猟用の散弾銃の弾296個、狩猟用のライフルの弾292個、薬きょう45個が見つかった。ライフルの弾は数種類あり、ケース(高さ25センチ、幅14 センチ、横35センチ)に入っているのもあった。


想像してみて欲しい。川原の河川敷に突如として現れる散弾銃を。行田市といえば古墳などが発掘されたことで有名な、のどかで広大な田園都市である。しかし別に狩猟が出来るような奥深い森林があるわけでもなく、田畑に舞う野鳥を打ち落とすハンターがいるわけでもない。特に理由が分からないままに、突如として発見された殺傷武器。しかも記事によると薬きょうが見つかったとある。つまり実際に弾が発射されたということだ。人通りが少ないとはいえ、仮にも都市部である。何者かが散弾銃を乱射し、そしてそれを打ち捨てていく場所とはいったいどんな場所なのか、もしくはどんな雰囲気を漂わせるのか。これは興味深くはないだろうか?聞くのと実際に見てみるのとでは大違いだろうし、それに行田市といえば家からそう遠くない場所だ。こんなチャンスは滅多にない。好奇心と野次馬根性の赴くまま、実際に行って確かめてみることにした。プチ“スタンドバイミー”ごっこである。


よく晴れた土曜日。いくつかの電車を乗り継ぎ、いかにも地方都市にありそうな古びたローカル電車に乗る頃には、辺りはすっかり辺鄙な田園風景へと様相を変える。事件のあったと思しき最寄り駅で下車し、プラットフォームに降り立つと、人気の全くない駅に一人ぽつんと取り残される。時間はすでに昼の十二時を過ぎていた。携帯を取り出し、Googleマップで現在地を確認する。地図で見る限りなんとか歩いて行ける距離だろうと高をくくり、漠然と北を目指して歩き始めた。



寂寞とした町並み、たたずまいとでも言おうか。20分くらい歩いてみたが、まず何より人に出会わない。駅構内にも駅前通りにも誰一人いない。そして辺り一面見渡す限りの畑。はるか遠方から耕うん機のモーター音が聞こえて来るが、それが一層この場所の人の不在を強調してなんとなく薄ら寒く感じる。時々思い出したように、何台か車が路地を通り過ぎていく。確かに人はいるのだ。しかし全然通行人に出会わないのと、見知らぬ土地を歩いているのとが重なり、すっかり人間社会から隔離されてしまった感が襲ってくる。人がいるはずなのにどこにもいない。勝手に人の家に上がりこんだけど、誰もいなくて逆に落ち着かない。そんな感じだ。

見渡す限りの澄み渡る秋空、どこまでも続く美しい黄金色の稲穂。もう一時間ぐらい歩いただろうか。風光明媚な景色の只中にあって、徐々に時間の感覚が麻痺して行く。自分は今どこにいて、そしてなぜここを歩いているのか。そんなことが段々と曖昧になっていく。もしかしたらこのまま迷子になって帰れなくなってしまうんじゃないのか?もしくは不審者と間違われて銃を捨てた犯人にされてしまうとか?そんな意味不明な妄想が頻繁に頭をよぎるようになる。なにやら禁断症状めいた感じが襲ってきたので慌ててiPodを取り出し、音楽で何とか気を紛らわせる。
そういえば、洗脳における第一歩は外界からの情報を遮断することからだと聞いたことがある。何一つ見知ったもののない場所をよくわからないままに歩くことは、まさに情報遮断に等しい。世界への実感が薄まり、軽い変性意識状態にあるときに、幻聴のようなものが聞こえてはこないのだろうか。例えば銃声とか…

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雑念を振り払いつつ、ただひたすらに歩き続けていると、本当にどれくらい歩いただろう、ふと突然河川敷の土手らしきものが目に入る。

あ、あれは!

意気揚々と駆け寄り、きちんと雑草が刈り込まれた土手を一目散に登り詰めると、そこには悠々と流れる利根川の流れが眼前いっぱいに広がっていた。川原の傍には車が何台か駐車され、人の姿もちらほらと見受けられる。釣りでもやっているのだろうか?その周囲には赤や黄色のコスモスが咲き乱れ、美しい秋の様相を呈している。やっと人里にたどり着いた旅人よろしく、安堵が全身に広がる。そしてなぜだかこの時、ふと思ったのだ。

ここだ。この安住の地にこそ、混沌とした人間の妄想やら雑念やらのはけ口がある。だからこそ散弾銃はこの場所に打ち捨てられたのだ。なんだか一人妙に納得し、晴れ晴れとした気分で川原の景色をただじっと、いつまでもいつまでも眺めているのだった。



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帰り道。キンモクセイの香りにつられ、ふらりと立ち寄った風車のある公園の中をぶらぶらと散策しつつ、今日の出来事について振り返ってみる。思えば今無事にここにいられるのも、携帯の地図やらiPodといった文明の利器によるところが大きいなと思う。いや、まずそもそもこんな見知らぬ場所を歩いていること自体、携帯に配信されたニュースを見たのがきっかけだったではないか。そう思うとなんだか不思議な気もする。自分の発想、自由意志。それらを可能にするのは結局のところ、自分の計り知らない所で整備された社会システムのおかげなのだ。これはそもそも自由意志なのか?要するに全ては想定の範囲内での冒険ごっこでしかないのではないか。
そこで、まあ別にどうでもいいことではあるけど、ほんの少しだけそれに逆らってみることにした。iPodをしまい、携帯の電源を切って、漠然と南の方角へと歩き始める。確かこっちの方角には来たのとは違う別の駅があったはずだ。気の向くまま行ってみることにした。相変わらずどこまでも続く田園風景の只中を。

ふと立ち止まり、じっと耳を澄ませる。どこからともなく散弾銃の銃声が聞こえて来やしないかと、遥か遠くの方まで聞き耳を立ててみる。だが結局のところ何も聞こえず、少し暗くなりかけた歩道の上でただ一人、ぽつんと取り残されるのみだった。
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茨城県取手市にある某ホテル7階の渡り廊下の窓から、千葉県の方角を眺めてみる。利根川に架かる常磐線の鉄橋が8月の熱気にゆらゆらと揺れて歪んで見えた。紫外線は容赦なく降り注ぎ、目の奥に鈍い痛みを残す。その体感的かつ視覚的熱気に思わずその場にへたり込みそうになる。これはまずい。早々にその場を離れると、急ぎ自室に舞い戻ってエアコンをガンガンに利かせ、ベッドに飛び込んで目を閉じる。

特に観光地としてのイメージがあまり無い茨城県にやってきたのは他でもない。どうも茨城県牛久市というところに世界最大の大仏があるという話を小耳に挟んだためだ。調べによるとその大仏、全長が120メートルもあるらしい。その話を聞いてまず初めに思ったのが、そもそも何でそんな巨大な像を造ってしまったのかという純粋な疑問だ。全国各地の観光地には確かに、20メートル程度の仏像やら観音像があるのは知っている。それとて人々の耳目を引くには十分な大きさだろう。だが120メートルともなれば話は別だ。どだい大きすぎる。純粋に客寄せのために造るにはあまりに大袈裟だ。

信仰心?まさか。きっと、そんな過剰なものを造ってしまうような何かが現地にはあるに違いないのだ。巨大大仏建立の裏に隠された秘密、もしくは秘められた思い、それを探りに行こうではないか。そう考えたのがそもそもの始まりだ。
日帰りで行けないこともないが、折角なので泊まりがけで行くことにした。検索した結果、牛久周辺に手ごろな宿泊施設がなかったため、近くにある取手市というところで一泊し、翌日牛久へ行くことに決めた。うだるように暑いお盆休みの最中であった。

8月13日、午後1時、牛久駅に降り立つ。気温35度。めまいのする暑さだ。大仏行きのバスを待つ間、周りの人々を観察してみる。やはりというかなんというか、老人が多い。観光というよりは、むしろ巡礼感覚なのだろうか。まあ確かに、大きいというただその一点で実際何かしらありがたそうではある。一度でも見ておけばきっと何らかのご利益があるに違いない。何に効くかは知らないけど。などと考えているうちにバスがやって来たので、そそくさと乗り込む。ほんのり冷えたバスの中でお茶を飲みつつぼんやり外を眺めていると、バスは程無くして大仏へ向けて発車した。

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だいたい20分ぐらい過ぎたころだろうか。そろそろ何か見えてくるんじゃないかと窓の外を気にしていると、ふとバスの反対側の方から誰かの歓声にも似た声が聞こえてくる。そちらの方に目を向けてみると、それは唐突に視界に飛び込んできた。遠方に巨人がそびえたっている。それも、ものすごい大きさだ。周りに遮るものが何もないことがより一層その大きさを強調させ、その異様な様を周りに誇示している。これはすごい。…しかし何と言ったらいいだろう、すごく笑えるのだ。それは畏怖の対象というよりはむしろ、面白おかしい巨大アトラクションのようであり、実際あれを見上げる人々の表情も一様に苦笑混じりである。“大仏”が“デカイ”という二つの要素が入り混じることによりある種の滑稽さを醸し出していて、そのことがとてつもなくおかしいのだ。

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バスが目的地にたどり着く。人々は一斉にあの巨大像へ向けて歩き出す。片時も目をそらすことなく大仏に向かって歩きながら、ふとあることを思い出す。社会心理学の話なのだが、何かが人々の注目を集める時、それが濃密であればあるほど、奇妙なことにその周辺にいる人々はお互いの連帯を強めることがあるという。たとえばカリスマと呼ばれる者が停滞した社会に現れると、一気に活性化して、ばらばらであった社会に統制が見られることがあるという。安直な例だがヒトラーなどがそうだ。そしてここで重要なのは、カリスマが“何をしたか”ということではなく、“どんな佇まいであるのか”という点にある。カリスマのスゴさというのは、その行為に帰せられるのではなく、その存在自体によって決まる。ただそこにいるだけで他者を圧倒する存在、それが本来の意味でのカリスマだ。そう、例えばあの大仏のように。

近隣住民はきっと毎日毎日あの大仏を意識的にしろ無意識的にしろ注目していることだろう。するとどうなるか。おそらく大仏を中心とした周囲一帯に一種の連帯感が形成されているのではないだろうか。大仏が引き起こす変性意識、つまり大仏ハイによってみんなが繋がり、包摂される。なるほど、巨大なものを造るということの意味とか意義というのは多分そんなところにあるに違いない。実際に来て確かめてみてよく分かった。

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暑い。うだるような暑さだ。裸眼で大仏を見上げているせいか、紫外線で目の奥がジンジンとしてくる。入口から大仏へと続く道に、日陰となるようなものは一切なく、直射日光をじかに浴びながら歩いていると段々と暑さで意識が朦朧としてくる。するとどうだろう。なんだかあの大仏が神々しく思えてきて、後光すら射しているような感じがしてくるではないか。くらくらする頭で、これは単に暑さのせいなのか、いやひょっとすると本当にあの大仏の威光にやられてしまったのか、などと冗談半分考えてみる。あながち冗談ではないのかもしれないと思い、ふと大仏を見上げてみると、そこにはあの笑いの対象であったはずの大仏が威厳をもって堂々と微動だにせず、ただひたすら無表情に虚空を見つめて立っているのだった。
先日何気なくテレビを見ているとちょっと面白い話に出くわした。視聴者が撮った写真に偶然写っていたUFOらしき物体が本物かどうかを検証する内容で、結論としてそれは何かの光が反射してたまたま写りこんだ影である、という専門家の話で決着がつくのだが、その話を受けてパーソナリティーがこんな話を始めた。「自分もかつて仲間と一緒にいるとき、何か不可思議な黒い浮遊物を見たことがあった。騒ぎになってあれが何かを調べさせたところ、後になってそれはどこかの観測所の測量機であることが判明した。しかしその得体の知れない飛行物体を見ていたほんの数十分の間中、我々はとても幸せだった。」のだと。

UFOの真偽のほどはさておき、そういった得体の知れないものや想定外の出来事(災害等)を前にして、えも言われぬ高揚感に包まれるのは何も珍しいことではない。恒常的日常性の前に、突如として現れる“規定外”の事象は、自分の立ち居地を揺るがし、確固とした現実を無力化させる。それは非現実を馴致させる契機を与え、人を高揚させるのだ。医学的には一種の精神麻薬のようなものといわれているが、例えば日本で起こった幾つかの災害や、例のアメリカ同時多発テロ事件などの事後レポートなどに目を通してみると、こういった奇妙な“多幸感”が人々の間に訪れたという記載を見ることができる。

“あの震災の最中、我々は奇妙な一体感と高揚感に包まれていた”

“瓦礫の山を前にして、一時的にせよ高揚感ですっかり感覚が麻痺していた”


そういえば自分にも昔こんな体験がある。学校からの帰り道に、乗っていた電車が突然何の前触れも無く緊急停止したことがあった。だがそんなことは別段珍しいことではなく、きっとどこかの駅で線路内に人が立ち入ったとか、もしくは信号機の故障だとか、多分そんなことだろうと思ってさして気にも留めずにいた。しかし何の説明も無く10分が経ち、15分が過ぎる頃、さすがにこれは何かおかしいのではと思い始めたその時、車内にこんなアナウンスが流れた。

「ただ今この列車にて人身事故が発生いたしました。現在確認作業をいたしておりますので今しばらくお待ちください。」
一瞬の静寂の後、車内がいっせいにざわめきだす。この列車が人を轢いてしまったのだ。今この車両の下に人一人、おそらく無残な轢死体となってあちこちに散らばっているのかと思うと、なんともいえない不快感が襲ってきて落ち着かなくなる。そしてそんな不安感をさらに煽るアナウンスがしばらく後に続いた。

「今現在、車輪に挟まっております人の撤去作業を致しております。今しばらくお待ちください。」

その時奇妙なことが起こった。車両内に形状しがたい一体感が生まれ、人々の間に打ち解けた雰囲気が漂いだしたのだ。目の前に座っていたサラリーマンと隣にいた主婦らしき人が(恐らく赤の他人同士)事故の状況について意気揚々と話し出す。聞こえてくる人々のざわめきも親しげで、きっと何か手伝うことができれば、みんな喜んで手を貸すようなそんな善意あふれる感じだった。おぞましい惨事の周辺にいる人々は驚愕し、高揚し、そして一体化する。人身事故を前にして、人々が繋がったのだ。それは実に不思議な光景だった。そして、正直に言おう。自分もちょっとわくわくしていた。

…しかしそんな親しげな雰囲気も列車が止まっている間だけだった。事故処理が終わり、結局全員車両を降ろされ、次の駅まで歩いて行くことになるのだが、その頃には既に打ち解けた感じは消えて無くなり、人々はまた以前の赤の他人へと戻っていた。


★∞◎∞☆∞◎∞★∞◎∞☆∞◎∞★∞◎∞☆∞◎★∞◎



JR浦和駅を降りて「大久保浄水場」行きのバスに乗り、「道場(どうじょう)」で下車する。するとそこから歩いて10分程のところに、見上げんばかりの巨大な電波塔がそびえ立っている。正式名称をNHK平野原送信所(ひらのはらそうしんじょ)と呼ぶが、その形状がロケットに似ていることから、密かに“ロケットタワー”などと呼ばれていたりもする。埼玉全域にわたってFM放送やテレビ埼玉の電波を送っているこの塔は、全長173mもの巨体を田園風景の只中に晒し、遥か遠くからでもその容姿を誇示してやまない。



このロケットタワーを見上げる度にいつも思うことがある。
あの巨大な塔が、いつか強風に煽られて、倒れてくれないかと。
幸い周りは田んぼだらけだ。うまく倒れれば人的被害は無い。
だから切に願う。
轟音を立てつつ、倒壊するその瞬間を。
そして、倒れた塔の瓦礫の周りに皆で集まり、
その惨事の前で一つになろう。
平時にはついぞ成し得ることの無い濃密な空間の輪の中で。



それはさぞかし素晴らしいに違いないと、夢想しつつ、今日もまたあの電波塔を見上げるのだ。



誰もいない交差点で信号が青から赤へと変わる。どうやら止まれと言っているらしい。もちろんそんな気などさらさらなく、構わずに突っ切って渡る。車は一台も通らず、また信号無視をとがめる者もいない。ルールとは本来秩序と無秩序を分ける境界のようなものだが、それも他者あってのことだ。参加者なきシステムのルールに対する固執は、偏執的な自己満足でしかない。
朝の四時四十五分。まだほんの少しだけ薄暗い街中を悠然と歩きつつ、辺り一面ぐるりと見渡してみる。もちろん人っ子一人いやしない。いわば「関係性を欠く見慣れた場所」、もしくは「切り離された空間」を悠長に彷徨い歩く、そんな感じだ。間違いない。意味もなくそんなことをする奴は確実に頭がおかしい。どうかしている。主観的に見ても客観的に見ても夢遊病者以外の何物でもない。しかし、こんなことをして楽しいのかと問われれば、正直ちょっとだけ楽しい。

ちょっとしたお遊びだ。特に意味も無く、朝散歩したら楽しいかな、休みだし普段できないことを満喫してみようかな、という思いつきのもと、“早起き計画”を立てたのがゴールデンウィークの真っ只中だ。ところが目覚まし無しで目覚めてみると、なんと朝の四時半ではないか。これにはちょっと戸惑う。これはいくらなんでも早すぎだ。そんな朝早くに出歩いてる人間は老人か新聞配達か挙動不審者ぐらいだ。しょうがない、二度寝しようと思いかけたその時、ふと思いとどまる。…いや、待てよ。むしろ、この早すぎと言う過剰さは、時間的非日常という意味においてこの“早起き計画”にぴったりではないのか。場所が同じでも時間が違えばそれは普段とは別のものになる。そう考えると何だか急に面白くなってきて、ついノリと勢いに任せて家を飛び出したのが起きてから十五分後のことだ。

朝。そのくせまだどことなく薄暗く、すずめの鳴き声だけがやけにやかましい早朝。

ぼんやりとコンビニの光が浮かび上がって見える。中を覗いてみるが客は一人もいない。いや、客どころか店員さえ見当たらないのはなぜだろう。トイレにでも行っているのか、もしくは棚の影で商品でも並べているのか、分からないまま通り過ぎる。



向こうから人が歩いてくる。案の定老人だ。しかしなぜだろう妙に気まずい。こちらの確信犯的おふざけ行為に対する後ろめたさとでも言おうか。もしくは早朝散歩をしていることに対する一種の共犯者意識なのか。なるべく顔を合わせずにやり過ごす。



五時。さいたまスーパーアリーナに来てみた。普段人で賑わう場所ほど、無人の時とのギャップがあって不思議な感じがする。たった数時間違うだけなのにちょっとした別世界だ。



普段気にも留めないオブジェがやたらと目に入る。薄明かりの中で、人の目に晒されることなくただひっそりと佇むその姿は、どこか怪しげな光を放ち、露骨なまでにその存在感を剥き出しにしている。そこには普段見えることのない何かが宿り、華やいでいるような、そんな感じがした。













しかしそんな特別な時間も、ゆっくりと、ゆっくりと終わりを告げていく。曖昧さ漂う夜の匂いは徐々に消えてゆき、すべてのものがはっきりとした輪郭を持つ明るくて眩しい世界へと移行していく。宿っていたものは消えて無くなり、ただ物質だけが眼前に取り残されていくのを見た。その光景はどこか寂しげでもあり、また逆に、安堵に包まれていたりもするのだった。



東の空から昇る日の光が全てを銀色で覆い尽くし、新たな一日を始めようとしていた。
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性別:
男性
自己紹介:
★座右の銘
どんな愚行や自傷行為も、面白ければすべてよし

★本ブログのモチーフ
システムの中にいるものは決してシステムそのものを変革することはできない。システムとは、システムの内外を隔てる境界の存在のことであり、変革とは境界の外から内部を指し示す恣意的行為である。
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